石井志をんの短歌研究、家族の歌: 門脇あい子「シャスタの峰」(その二)

石井志をんの短歌研究、家族の歌
門脇あい子(かどわきあいこ)「シャスタの峰」(その二)

「禁制の柵をくぐりてタンポポの花摘みたしと児らは叫ぶも」高原短歌

門脇あい子は人を、自然をこよなく愛した。目に触れる物を、数多くの歌にして残した。その秀歌は多くの人の目に触れられるべきである。

門脇あい子の歌集はその文学的な価値もさることながら日本とアメリカの戦争と言う歴史の狭間で生きた女性の目を通して描かれた貴重な資料でもある。

太平洋戦争の勃発の翌年一九四二年からアメリカの西海岸側に住む十二万人の日本人、日系人が強制立ち退きを強いられ収容所に送られた。門脇あい子が家族と共にたどり着いた先はツールレーク収容所で、ここに一九四五年まで居た。

北米全土で一〇を数えた収容所が有った。ツールレークはカリフォルニア北端の地に有り、多い時には一万九千人が収容されたと言う。元々は兵舎として使われた古い粗末な建物に併設されたバラックでは、冬、寒風が吹きすさんだ。

だが、送り込まれた人々は環境の厳しさを跳ね返すような力を発揮した。彼らは学校を開き新聞を発行しスポーツや庭造り等、ほぼ柵の外と変わらぬ生活を手に入れた。合同歌集「高原」や文芸誌「鉄柵」等も発行した。

門脇あい子はここで洋裁学校を卒業しており、幼稚園教諭として働いている。

冒頭の歌は幼稚園の先生としての経験の一つを語っている。柵の外に出て花を摘む等許される筈もない。銃を持った兵士が高台から監視しているのである。

ここに紹介する三首はツールレークで「高原」と言う短歌会で発表しコロラド州デンバーで発行されていた日本語新聞「ロッキー新報」に掲載された物である。

「はろばろに思ほゆるかもシャスタの峰に続ける遠き山脈」高原短歌

人々は冠雪のシャスタの峰を仰ぎ、愛で、写生をした。私は幾度もこの山の麓を通った、若い私は何も知らずにただその山に登ってみたいものだと思っていた。

「同郷と聞けば知らざる人にさえ親しみ湧けり隔離所にして」高原短歌

しかし、悪い事ばかりではなかった。ここで未来の伴侶となる人との出逢いが待っていたのである。

(敬称略)

歌人 石井志をん
千葉県出身、カリフォルニア州、サンタクルーズ・カウンティー、フェルトン市在住、カリフォルニア短歌会会員、新移植林会員。
二〇二一年三月記

(注、カリフォルニア短歌会はロサンゼルス在住の松江久志主宰、新移植林はロサンゼルス在住の中條貴美子主宰、どちらにもに北米と日本の歌人が在籍する)