Inai Heian Dialy Medicine Herb

徳島市在住 稲井一雄(いない・かずお)

(毎月第3水曜日、ロサンゼルス時間・午後6時から8時まで、オンラインで「源氏物語を読む」セミナーをカルチュラル・ニュースが主催しています。徳島市の稲井さんは、そのオンライン講座の参加者です)

2025年6月4日掲載

古代の医療を考える

源氏物語の桐壺の巻で、若宮三歳の夏、御息所(みやすどころ、桐壺の更衣)はちょっとした病気を患って里に退出なさろうとします。けれども帝はどうしても暇をお出しにならない。「なほ、しばし、こころみよ」とおっしゃいました。注釈書は、「なお養生をこころみよ」などとなっています。「養生」とはなんでしょう。曖昧な気がします。更に「こころむ」の第一義は「試す、試験する」ですが、古語辞典は第二義の「様子を見る」となっています。しかしそれでは「やはり、しばらく、様子を見なさい。」となって、更衣が病気で苦しみ、里帰りを切望しているのに、帝は彼女を宮中に留めて様子を見るだけになり、知恵の足りなさを感じます。そんな疑問を持ちました。そのことを考える前に、まず古代の医学史から見ていきましょう。

つい最近になるまで、人類は病気の正体や身体のメカニズムを知りませんでした。しかし相当古くから、人類は病気に多大の関心を持ち、なんとかして治そうと努力し続けて来たに違いありません。文明発祥の地のネソポタミア、エジプト、中国では、医療は重要な政治の一環として、国家制度に組み込まれていました。メソポタミアの場合、司祭を兼ねた医師が、症状に応じた診断と処置を行いました。発掘された粘土板(楔形文字)に、多くの医学、薬学の記述があるそうです。エジプトも、医師は司祭を兼ねていて、症状を正確に記述する能力を持ち、合理的、経験的な治療法を多く持っていました。パピルス文書にそのことが書かれているそうです。中国では、医学は官吏の管理下に置かれ、宮廷では医学書が編纂され、保管されてきました。後にそれが日本にも影響します。また、古代ギリシャは、人々の合理的な自然観や交易による視野の広さなどが背景にあって、医療はさまざまに発達し、多彩な形態と学説を取っていました。その頃の代表的な医師はヒッポクラテス(BC460頃〜BC375頃)です。科学的医学の確立者とされています。彼は呪術を否定し、自然に目を向けました。多くの他説を取り入れ、医学的見解を『ヒッポクラテス集典』に著しました。現代も彼の観察したものや「医師の誓い」などが受け継がれています。また、ローマ時代のローマでは、名医の評判を取り、皇帝マルクス・アウレリウスの侍医となったガレノス(129頃〜199頃)がいました。彼は、プラトンやピッポクラテスを崇拝し、哲学や医学全般の著述を手掛け、医学では、臨床の他に、薬学、生理学、解剖学、医学全般にわたる多くの医学書を著しました。

日本の医療の起源は、因幡の素兎(しろうさぎ)伝説にまで遡ることができます。『古事記』(712)に記された大国主神 (大穴牟遅神、おおなむちのかみ)の妻問(つまどい)神話を見てみましょう。彼には異母兄弟のたくさんの神々がいましたが、彼に国を譲って去ってしまいました。なぜかと言えば、彼らはそれぞれ因幡国の八上比賣(やがみひめ)に求婚したい気持ちがあって、連れ立って因幡に向かったのです。兄弟たちは大穴牟遅神に重たい旅行用具を担がせて、卑しい従者扱いをして連れて行きました。大穴牟遅神は兄弟たちに遅れて行きました。先に行った兄弟たちが因幡国気多郡(けたぐん)の海辺の崎にやって来た時、丸裸の兎に出会いました。彼らはその兎に言いました。「お前がすることは、ここの海鹽(うしお、海水)を浴びて、吹く風に当たり、高山の頂で横たわることじゃ。」と。兎はそれに従って伏すと、海水が乾くに従って全身の皮膚が風に吹かれて裂け、却って悪くなりました。兎は痛くて泣きながら伏していました。そこへやって来た大穴牟遅神が、その兎に尋ねました。「お前は何故泣き伏しているのだ。」と。兎が答えるには、「わたしは沖の島に住んでいて、海を渡って本土へ行こうとしましたが、手立てがありませんでした。そこで鰐鮫(ワニザメ)を騙(だま)して、こう言いました。『わたしとあなたとが競って、どちらの一族が多いか少ないかを数えてみましょう。あなたはあなたの全ての一族を連れて来て、この島から気多の崎まで並んで伏してください。わたしはその上を踏んで走りながら数を数えましょう。そうすれば、わたしの一族とどちらが多いのか分かるでしょう。』と。鰐鮫たちは騙されたとも知らずに向こうの島から並んで伏せたので、わたしはその上を踏み数えながら渡って行き、まさに降りようとした時、わたしは思わずこう言ってしまったのです。『みんなわたしに騙された。』と。そう言い終わるや否や、最端に並んでいた鰐鮫が、わたしを捕らえて毛皮を剥いだのです。泣き沈んでいるところに、先に行ったあなたの兄弟たちが言ったお言葉で、『海鹽(うしお、海水)を浴びて、風に吹かれて伏せよ。』と言ったのです。そこで大穴牟遅神が教えて言うことには、「今すぐ川の河口へ行って、淡水で体を洗いなさい。そしてそこの蒲の花を取って来て、敷き散らしてその上に繰り返し転がれば、お前の体は元の膚のように必ず癒えるだろう。」と。兎は教えられた通りにしたところ、体は元通りになりました。その兎は、今兎神と言います。「あの多くの兄弟たちはきっと八上比賣と結婚できないでしょう。袋を背負って賤しいなりをしていても、あなたが八上比賣を娶(めと)るでしょう。」と予言しました。

また、因幡国の『風土記』逸文(官命時713)にも、同様の記述があります。沖の島から本土に渡ろうとした兎は、和邇(わに、鰐鮫)を騙したために捕えられ、皮を剥がされてしまいます。兎が泣いているところを大国主神が通りかかり、彼は兎にこう言いました。「カマの花ヲコキチラシテ、其ノ上ニ伏シテマロベ」(岩波文庫)と。蒲の花をそこらに散らして、その上に横になって転がれと教えたのです。『古事記』と同じ内容です。大国主神の兎への処置は実に合理的で適切です。蒲の花粉には止血作用があり、傷薬です。中国でも漢方薬とされていましたし、古代ギリシャでは火傷の薬とされていました。

大和政権が誕生すると、外国の医療技術を持った人が医学書を携え、海を渡って来て治療を始めたでしょう。外国の医療が最初に伝わったのは414年で、新羅の国からとされています。また、欽明天皇(?〜571)の頃、医学全般の基礎理論が書かれた『黄帝内経』(前漢の末頃)や、薬物が記載された『神農本草経』(紀元前後)といった医書が百済から齎(もたら)されました。推古天皇(554〜628)の頃には遣隋使が派遣され、同行者が当地の医学を学んだり、医書を持ち帰ったりしました。七、八世紀になって政権がしっかりとしてくると、大宝律令(701)や養老律令(718)が制定され、唐の模倣のようですが、「医疾令」が定められました。医療は国営で、対象は皇室・官人であって、民間人は対象ではありませんでした。ただし、奈良の大仏造営743〜749)のために全国から多くの職人を集めて工事を行った際には、病人や怪我人の治療所が現場に設けられました。「医疾令」は、医博士以下の任用、医生(いしょう、学生)の養成、薬園の運営、全国からの薬品(やくほん)の徴集制度、天皇や五位以上の官人への医療活動などを規定しています。九世紀になると、外国の医学ばかりに頼っていた日本の医師たちの中にも、医学書を編纂する者が現れました。984年に丹波康頼が編纂した「医心方(いしんぼう)」30巻は、日本最古の医学書です。鍼灸、内科、外科、石薬、婦人、小児、延年、養生、飲食等のジャンルに分かれ、それぞれの処方が書かれています。

当時の医学は、一般庶民や下級官吏までには及ばなかったようです。『万葉集』巻五897の山上憶良の長歌「沈痾自哀の文(ちんあじあいのふみ)」を見てみます。読んでいくうちに筆者も身につまされました。「野山で狩をする人々すらつつがなく暮らしているし、河海で魚貝を獲ったり、海藻を採取したりする人々ですら、幸せに世渡りを全うしている。ましてやわたしは、生まれた時より今日に至るまで、善を積み、悪心を抱いたことがない。仏法僧を礼拝して日々に勤め、百神を敬重して一日たりとも欠くことがない。ああそれなのに残念なことか。わたしはどういう罪を犯したのか、こんな重病に出逢ってしまって。初めに病に陥ってからこの方、既に長い年月が経った。今七十四歳で、黒髪混じりの白髪になり、筋力が衰え、ただに歳を取っただけではなく、更にこんな病が加わった。諺(ことわざ)にある通り、痛い傷に塩を注ぎ、木の切れ端でそこを切るというは、そのことだったのだ。手足が動かず、体の節々が痛み、体が重くておもりを背負っているようだ。重いものを入れた嚢(布の袋)に寄りかかって立とうとすれば、翼の折れた鳥のようで、杖を突いて歩こうとすれば、足の萎えた驢馬のようだ。わたしは既に世俗の中に身を置いて、心も俗塵に塗(まみ)れているので、禍の住処や祟りの隠れ家を知ろうと思い、亀甲占いの家や神職の家を幾度訪ねたことか。真であっても嘘であっても、教えられた通りに幣(ぬさ)を捧げて祈祷してきた。苦しみが増すことはあっても、減ることはなかった。以前に聞いたところでは、昔は良き医者が多くいて、人民の病を治したという。黄帝の時の楡柎(ゆふ)、戦国時代の扁鵲(へんじゃく)、後漢の華他(かた)、秦の和と緩、晋の葛洪、梁の陶弘景、漢の張機など、皆実際に存在した名医であって、どんな病も治せたと言う。そのような医師をわたしが追い求めても、決して叶えられるはずがない。もし聖医、神薬に巡り合ったとしたら、仰いで願うのは、この五臓を割って切り裂き、あらゆる病を探し出し、体内の深い所を調べて、病が逃れ隠れた病巣を明らかにしてもらいたい。もう命の根が尽きかけ、天から与えられた齡を終えようとするのさえやはり悲しい。・・・・」彼の愚痴は更に延々と続きます。彼の言葉の中で特に注目する点は、神仏に頼ったけれども無駄だったこと、中国には名医と呼ばれた医師が数多く存在したこと、病の根源は体の奥深くにあることなどです。現在の科学でようやく可能になっていることを、奈良時代の憶良が切望していたのです。それは全ての古代人の本音であると思います。古代人の夢が現実味を帯び始めたのは、江戸時代に入ってでしょうか。1754年に、山脇東洋(1705〜1762)が日本最初の死体解剖を行いました。『解体新書』を出版した杉田玄白らより十六年以上早い時期です。

阿波国(徳島県)は全国でも有数の薬草の生産地でした。多種類の薬草を朝廷に献上したことが延喜式(927)に記されています。その頃全国各地から種々様々な薬草が朝廷に送られていました。宮内省管轄の典薬寮は医療を掌(つかさど)る役所です。医師の教育、薬種の生産・収集・調合などを行いました。医学校には、内科、外科、小児科、産婦人科などがあり、各科の博士が教授となって学生に教えていました。試験もありました。宮中には医師や針師や按摩師など多数の医療関係者がいました。医学、薬学においては、丹波、和気(わけ)の両氏の世襲で、多くの名医が出ました。女博士や女医という名も見えますが、医師ではなく、助産婦に近かったらしいです。加持祈祷も行われていましたが、医術とは全く相容れないものです。現代でも苦しい時の神頼みで、最近のコロナのパンデミックの際、我が家にもお寺のお札が送られてきたので、玄関に貼っておきました。源氏物語をよく読んでみると、霊験あらたかとされる僧も、加持祈祷一辺倒とは思えません。大陸伝来の医学知識を持ち、薬草の採取、栽培を行い、患者に薬湯を与えていたでしょう。若紫の巻の北山の聖 (ひじり)や、夢浮橋の巻の横川の僧都(そうず)は、加持祈祷に入る前に、さるべきものを病人に飲ませているではありませんか。

平安時代には主にどんな病気が流行したかを挙げてみます。源氏物語の若紫の巻に、源氏が「和良波夜美(わらはやみ)」にかかったことが語られています。子供に多いらしく、悪寒や発熱を繰り返して苦しむので、マラリアの一種でしょう。天然痘は、奈良時代に中国大陸から朝鮮半島を経て日本に伝わってきました。以後近代になるまで、大小の流行を繰り返してきました。痘瘡ウイルスによるもので、気道粘膜から感染します。江戸時代に種痘が入り、近年やっと絶滅宣言されました。都で大いに猛威を振ったでしょう。紫式部もあばた面をしていたのではないかと思います。赤痢は奈良時代からあり、経口性の伝染病で、局地的に集中して流行性の下痢症状を呈したのです。1898年(明治31)に、志賀潔によってやっと菌が発見されますが、昭和になるまで続いた厄介ものです。肺結核は、伝屍(でんし)、伝注、虚労、労瘵(ろうさい)、ぶらぶら病などと呼ばれてきました。呼称が多いのは、いかに長きに亘って身近な所で人々に関わってきたかということです。隋唐時代の中国大陸から半島、そして日本へと伝わって、日本各地で広く蔓延しました。西洋で顕微鏡の発明や微生物の発見の後、コッホが結核菌を発見(1882)するまで正体不明でした。抗生物質のストレプトマイシンの発見(1944年)で激減した病です。ライも渡来のもので、推古朝に存在が確認されています。病原菌の正体が分かったのは明治の1880年になってです。麻疹も都で大流行したことでしょう。麻疹はほとんどの人が罹(かか)る重症の病で、麻疹ウイルスによるものです。体力のない子どもが罹ると、昔はほとんど死に至ります。妊婦が罹ると親子共々大変危険です。江戸時代に犬公方と呼ばれた将軍徳川綱吉(1646〜1709)もそれが原因で亡くなりました。現代になっても特効薬がありません。わたしも子供の頃(1952)に罹って、夏の1ヶ月余り死ぬ思いをしました。

桐壺の巻に戻しますが、帝は、病に苦しむ桐壺更衣を一方的に宮中に留めて何もしなかったかのように解されがちですが、そうではありません。更衣は、ここ数年来いつも病気がちで、帝の御目が慣れてしまっていました。慢性の病気だったのでしょう。また、帝は愛する人が本当に死ぬことなど、思いも寄りませんでした。そこで帝は更衣に「なおしばしこころみよ。」と言ったのですが、何を試みたかです。いつも看病している宮中の医師たちに任せて、鍼灸、按摩、内科、婦人、養生、食事などの療法をしばらく試みなさい。帝はそんなことを思ったのではないでしょうか。いつの時代もそうですが、女性には女性特有の病があります。いろいろな学説があるようですが、桐壺の更衣や葵上などはその可能性が大です。昔はほんの些細な病気と思われるものであっても原因不明で、今日のように簡単にいかなかったのです。いつの時代の医師も、症状を見極め、症状に対して適切な処置を施し、治そうと努力します。宮中にはそんな医療スタッフが大勢いて、風邪、発熱、腹痛、胸の病、癪、頭痛、眼病、下痢、火傷、おでき、打ち身、歯痛、腰痛、骨折、切り傷、肩こり、障り、疲労、凍傷にと日夜奮闘していたことでしょう。

感想文は editor@culturalnews.com へ送ってください。

稲井一雄:昭和二十年(1945)徳島市生まれ。生後4ヶ月の時、米軍のB29の空襲を受け、焼夷弾が家屋に二発命中し、火炎の中で奇跡的に救出された。高校卒業後、静岡大学人文学部に入学、国文学を専攻する。徳島県立高校七校で、現代文、古文を35年間教える。その間、徳島大学学芸学部国語教室に半年間国内留学、また、鳴門教育大学大学院学校教育コースに入学、2年後に卒業する。県立高校退職の後、私立徳島文理中学校高等学校で現代文を10年間教える。

趣味は、『源氏物語』古写本(影印本)を読むこと。ペンネーム「あやたけのぼる」で主に作詞を試みており、「鳴門便り」「徳島平野」「新町川」「阿波の土柱」「white sands」「熱き思いに」などの作品がある。その他、クラシックギターを弾くことや、新聞投稿すること。著作として、『稲井静庵の一族 阿波女性医師とその系譜』(風詠社、2024)がある。