
徳島市在住 稲井一雄(いない・かずお)
(毎月第3水曜日、ロサンゼルス時間・午後6時から8時まで、オンラインで「源氏物語を原文で読む」セミナーをカルチュラル・ニュースが主催しています。徳島市の稲井さんは、そのオンライン講座の参加者です)
2025年9月19日掲載
紫式部の結論とは
当然のことですが、物語と現代小説とは随分違います。源氏物語蛍の巻に、光源氏と玉鬘や紫の上とのやり取りで物語論が交わされたところがありますので、そこをギュッとまとめてみます。紫式部の物語論と言ってもいいでしょう。物語は、嘘偽り、たわいもないこと、現実味のないこと、大げさなこと、珍しいこと、みっともないことなどが書かれている。だから自分の娘などには読ませたくないものもあるが、それでも、物語は人を慰め、「あはれ」を感じさせ、真実を語り、昔からこの世に在るものが詳しく書かれているから、捨ておけないものだと。つまり、物語は、大袈裟なところもあるが、真実が語られているというのです。
源氏物語の主人公の光源氏(ひかるげんじ)は、背が高くて光輝くような美貌の持ち主で、学問や芸能に秀で、実務方面(大和魂)にも長けています。一時的に失脚することがあるにしろ、次第に栄華を極めてゆきます。薫君(かおるのきみ)も光源氏の分身で、地位的に申し分なく、身体から芳しい香りを発し、優雅で、生真面目で、公正で、仕事をきちんとこなして、誰からも尊敬される人物です。薫のライバル、匂君(におうのみや)は、光源氏の孫で、人も羨む今上帝の第三皇子で、類まれな美貌を持ち主。自由奔放で人使いが荒く、強引で我儘なところのある皇子ですが、家庭にあっては子煩悩(こぼんのう)で妻を和(なご)ませ、歌を歌えばうっとりするほどの美声を放ち、並外れた漢詩の才のある教養人です。そんな理想的な人物を中心に据えるのは、物語の伝統的な書き方だとも、読者の期待や憧れに応えるものだとも考えられます。物語は大袈裟なところがあります。源氏物語は、竹取物語の伝記物の流れと、伊勢物語の歌物語の伝統を踏まえて成立したと言われていますが、主人公に理想的な男性を据えながらも、そんな男性に愛された女性たちの側にむしろ重要なテーマが潜んでいるのではないでしょうか。
さて、作者の紫式部は、長徳四年の秋(998)、二十八歳で藤原宣孝(のぶたか)と結婚しました。当時としては晩婚です。翌年に女子、賢子を産みます。結婚生活は長く続かず、夫宣孝は長保三年(1001)に亡くなります。彼女はその痛手から当時流行っていた物語作りに着手します。彼女は家居の数年間で、源氏物語の須磨巻、明石巻まで書いたらしいです。それが大変な評判を生み、物語好きだった道長の耳に届きます。彼の要請を受けて、彼女は寛弘二年十二月十九日(1005)に中宮彰子(しょうし)に仕えます。最初宮仕えが性(しょう)に合わずに心を病みますが、中臈(ちゅうろう)の女房になって、雑用、客の取次ぎ、中宮の話し相手、読書指導など、テキパキと仕事をこなすようになります。公務の傍ら、源氏物語をどんどん書き進め、一条帝に褒められ、宮中で好評を博して、「日本紀の御局」と呼ばれます。寛弘五年(1008)頃までに、源氏物語第一部、二部(幻の巻まで)まで書き終えます。そこで、源氏物語の清書・製本事業に取り掛かります。作業中、道長が原稿をこっそり持ち去るというハプニングがありましたが、道長の援助の甲斐あってやり遂げます。その後、紫式部はさらに薫の物語を模索し始め、寛弘七年(1010)頃までに第三部の宇治十帖(橋姫から夢浮橋まで)の執筆を短期間で終えます。第一部、二部と違って、主題明晰、緻密な構成、人物描写が下位にまで及ぶなど、リアルな現代小説に近い作品になっています。宇治十帖を追加したのは、何か特別な訳があったからではないでしょうか。
源氏物語は女性の悲劇を次々に取り上げています。桐壺の更衣の死去、夕顔の急死、六条の御息所の嫉妬や彼女の意図しない生き霊としての振る舞い、葵上の死去、藤壺の出家、空蝉の出家、髭黒大将の北の方の錯乱、紫の上の悲哀、女三の宮の不義密通と出家、一条の御息所の病死、大君の病死、浮舟の苦悩と出家など、そうした数々の女性の悲哀が語られます。どれもこれも不幸の要因は男性側にあります。源氏物語は、表向き理想的な男性を中心に展開しつつ、人生にもがき苦しむ女性の姿を如実に語るのです。本居宣長が「もののあはれ」と言ったのは、そのことでしょう。しかしそれだけでは人間悲劇の問題解決にならないではありませんか。紫式部はそこでさらに宇治十帖の決心をしたのではないでしょうか。
源氏物語を最後まで読めば、作者が何を言いたかったのかがはっきりします。宇治十帖の浮舟の悲劇(一時的なことですが)の原因は、薫と匂宮、二人の貴公子との愛の板挟みです。万葉集で取り上げられた真間(まま)の手児奈(てこな)や葦屋(あしのや)の菟原処女(うないおとめ)の伝説を想起させます。浮舟は自制的で鷹揚な薫君との愛が先行しますが、強引で情熱的な匂宮に強く惹かれて、薫の愛を裏切ってしまい、二人の愛の狭間で懊悩します。現代人はそれを不義密通と言ったりしますが、それでは浮舟が可哀想です。女性たちは、権力を持たぬ弱い立場にあり、地位や財産のある男性に頼らなければ生きていけないのが当時の社会ですから。
源氏物語の最後になって、女性たちの悩みの解決方法が明瞭になります。夢浮橋の巻の最後で、薫の君は、小野の里で尼君らと隠れ暮らす浮舟と縒(よ)りを戻そうとします。浮舟の弟君を使者に遣わして、横川の僧都(尼君の兄)の仲介の手紙を浮舟に渡すのですが、浮舟は薫に会おうとしません。源氏物語は、薫の諦めきれない未練と疑いの気持ちを語って終わります。薫は疑問に思うのです。他に彼女の想い人がいて、小野に隠して置いたのではないかなどと、あれこれ考えられる事柄全てを考えてみます。それと言うのも、宇治のような寂しい場所に彼女を放置しておいたその習慣でと、長かった物語はそこで終わりです。紫式部は一体何が言いたかったのか。大事なことは、浮舟は強い意志で薫と会うことを拒み、出家することが人生の最善の道であると確信していることです。女性の魂の救済は出家だったのです。『山路の露』というそこからさらに続けた別作品がありますが、誰もが予想できる範囲の内容で、発展の様子がありません。源氏物語は完結しているからです。
女性が出家する話は、源氏物語の途中で度々ありました。藤壺は、源氏への思いを断ち切るために出家しました。晩年の六条御息所は病気になり、極楽浄土を願って出家をしました。空蝉は、夫の伊予介に先立たれ、継子の河内守の懸想を嫌って出家します。女三の宮は、父朱雀院のたっての願いで源氏の許に嫁ぎましたが、柏木との間に薫を出産し、薫は源氏の子とされたものの源氏の冷淡さに失望して出家します。しかし源氏物語の途中では、出家がテーマに重要に関わるとは誰も感じません。しかし、主人公光源氏亡き後の宇治十帖の最終段階で、二人の貴公子の愛執から逃れた浮舟の出家、それこそが紫式部の結論であることに気づくのです。物語の舞台が京から宇治へ、さらに横川へと移ったのは、女性を悲劇に追い込み、救われるためで、以前から語ってきた出家話を最終結論とするためだったのです。
ちなみに後世になると、一般庶民も魂の救済手段を手に入れます。私が暮らす徳島県徳島市国府町では、至る所に板碑(いたぴ)という石の遺物を見かけます。鎌倉時代から南北朝・室町時代にかけて造られた緑泥片岩の板状の供養碑です。両親などの亡者の追善供養や、生きたまま極楽浄土を願う逆修(ぎゃくしゅ)の目的で建てられました。大きなものから小さなものまであります。現在、徳島県内に約二千余基、国府町内に約五百基が残っています。国府町内を散策すると、辻角、人家の庭先など、至る所で板碑を目にします。昔はいかに多くの人々が極楽往生を願ったかが分かります。そのことは拙著の『稲井静庵の一族 阿波の女性医師とその系譜』にも書いておきました。
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稲井一雄:昭和二十年(1945)徳島市生まれ。生後4ヶ月の時、米軍のB29の空襲を受け、焼夷弾が家屋に二発命中し、火炎の中で奇跡的に救出された。高校卒業後、静岡大学人文学部に入学、国文学を専攻する。徳島県立高校七校で、現代文、古文を35年間教える。その間、徳島大学学芸学部国語教室に半年間国内留学、また、鳴門教育大学大学院学校教育コースに入学、2年後に卒業する。県立高校退職の後、私立徳島文理中学校高等学校で現代文を10年間教える。
趣味は、『源氏物語』古写本(影印本)を読むこと。ペンネーム「あやたけのぼる」で主に作詞を試みており、「鳴門便り」「徳島平野」「新町川」「阿波の土柱」「white sands」「熱き思いに」などの作品がある。その他、クラシックギターを弾くことや、新聞投稿すること。著作として、『稲井静庵の一族 阿波女性医師とその系譜』(風詠社、2024)がある。

