
徳島市在住 稲井一雄(いない・かずお)
(毎月第3水曜日、ロサンゼルス時間・午後6時から8時まで、オンラインで「源氏物語を読む」セミナーをカルチュラル・ニュースが主催しています。徳島市の稲井さんは、そのオンライン講座の参加者です)
(2025年4月28日掲載)
夢浮橋の巻にこんな一文があります。「小野には、いと深く繁りたる、青葉の山に向ひて、紛(まぎ)るることなく、遣水(やりみず)の蛍ばかりを、昔おぼゆる慰めにて、ながめ居給へるに、例の、はるかに見やらるる谷の軒端(のきば)より、さき、心殊(こと)に追ひて、いと、多うともしたる火の、のどかならぬ光を見るとて、尼君達も、端に出で居たり。」(源氏物語(1)岩波文庫、1967)
意味はこうです。「小野の里での昼間は、鬱蒼(うっそう)と繁った青葉の山を眺めますが、過去の忌(い)まわしい恋の名残は消えません。しかし夜になると、遣水付近に蛍が飛び交い、親や姉妹と宇治に住んでいた頃が懐かしく思い出されて、心が慰められるのです。いつもそうやって外をぼんやり眺めています。今夜は、遥かに見渡される谷の方角に見当をつけて、軒先からぼんやり眺めますと、心した先払いの声が聞こえて、数多くの松明の火が並んで見えます。心中は穏やかではありません。奥にいた尼君たちも只事ならぬ松明の多さに気付いて、端に出て座ります。」
源氏物語は、何度読み返しても、発見が後から湧いて出て、感動が尽きません。特にこの箇所がそうです。山の木々が茂って、青葉が鮮明です。夏です。茂った青葉は、浮き舟の憂鬱な心理を暗示します。青葉の鬱蒼の「うつ」と、浮き舟の憂鬱の「うつ」とが一体化しています。ですから「紛るることなく」、憂鬱な気分が晴れなくてと言っているのです。次に、昼間の景色から夜の景色に移ります。心の傷の癒えない浮舟にとって、夜は遣水付近に蛍が飛び交うと、親や姉妹と宇治に住んでいた昔が思い出されて、心が慰められます。妹尼の小野の庵は、世を忍ぶ仮り住まいであるけれども、由緒ありげです。妹尼は、衛門の督(えもんのかみ、従四位下相当)の妻だった人で、夫に死なれ、残された娘を大事に育てて婿に中将を迎えました。ところが娘も死んでしまい、悲しみのあまりに尼となりました。高官貴族の妻だったのですから、都の気風が残っていて、小さいながらも寝殿造を模した洒落た庵なのでしょう。遣水があるので分かります。
浮舟は、いつものように今夜も軒先から遥かな谷の方角に目をやると、心する先追う声がはっきり聞こえてきます。牛車(ぎっしゃ)に乗った誰かの行列が谷沿いを下って来たのです。暗闇の中でたくさんの松明の火が見えます。その多さから、この世に滅多にいない高貴な方の行列に違いありません。松明の火の揺らぎは浮舟の心の反映です。聞き覚えのある先払いの声と言い、松明の火の多さと言い、薫大将の行列に間違いありませんので、心穏やかではありません。蛍のイメージが松明の火へと変化し、聴覚的、視覚的に捉えた行列が浮舟の心を重く沈ませるのです。部屋の奥にいた尼君たちは、ただならぬ声の異常さに気付き、端に出て座ります。そこで浮舟は尼君たちから情報を聞きつけることになるのです。読めば読むほど味わい深くて、とてもいい箇所です。
それにつけても想起されるのは、澪標(みをつくし)の巻における光源氏の行列の場面です。都に帰り咲き、内大臣に昇進した源氏は、須磨の地で住吉の神に大願を立てたことのお礼参りをします。上達部や殿上人達が我も我もと源氏のお供を願い出て、住吉神社に向かいます。季節は天高く馬肥ゆる秋です。場面は住吉神社近くの海岸沿い。ちょうどその時、明石の上も船で参詣しにやって来ていたのです。船を岸辺に着けると、そこらじゅう大勢の人が騒ぎ合っています。行列は源氏の一行でした。浮舟はその様子を船の中から眺めながら懊悩(おうのう)します。白昼のことですから、源氏の行列は、松原の緑の合間にはっきり見えて、カラフルで絢爛豪華です。作者は、人々の服装の色を一々取り上げていく手法を取っています。その徹底振りに少々食傷気味になりました。
社前で東遊を奏する十人の舞人は、白地に山藍で模様を染めた装束を着ています。濃淡に違いのある紫、赤、緑色の袍(ほう、上着)を着た人々の服装は、まるで桜や紅葉を散らしたようです。最古参の蔵人は、天皇がお召しになった山鳩色の袍を賜ってそれを身につけています。明石の上の見覚えのある若者の顔もちらほら混じっています。右近の丞は、今は靭負(ゆげい、衛府の武官)の蔵人(くろうど、天皇のお側に支える近習)になって、物々しい随身(ずいじん)を伴っています。良清も、衛門(えもん)の佐(すけ)になって赤衣姿です。上達部や殿上人の馬まで派手に飾り立てられています。
源氏は御車に乗っています。源氏は内大臣ですから、檳榔庇車(びろうひさしのくるま)でしょうか。その車の側に、可愛らしい童随身(わらわずいじん)が十人従っています。髪を左右に分けてゆずらを結っています。紫裾濃(むらさきすそご)の元結(もとゆい、もとどりを結ぶもの)で結んでいます。源氏の子の夕霧は八歳になり、馬に乗せられています。その馬の右脇に馬添童(むまぞいわらわ)が揃いの衣装を纏って付き添っています。作者は、源氏の行列の様子を、色とりどりの服装を取り上げて、豪勢さ、煌びやかさを視覚に訴えています。昼間の出来事ですから、作者は思いっきり腕を振るって、源氏の権勢ぶりを描きました。
しかしただ源氏の行列の華やかさを述べるために、一々服装を取り上げたのではありません。明石上の悲しみと裏腹です。明石から住吉神社へわざわざ船でお参りに来たのですが、源氏の参拝の豪華な行列を憚(はばか)って、上陸できません。我が身の上の不甲斐(ふがい)なさ、行く末の心配から悲しみが募り、源氏の思い人で姫君を産んだとは言え、今や源氏は遠い存在となり、気も狂わんばかりです。それに、たとえ源氏に引き取られたにしても、都には紫の上を始めとして、源氏の思い人や囲い人が大勢います。須磨の明石入道の娘として、鄙(ひな)育ちの自分がやっていけるでしょうか。ですから作者は、源氏の行列の豪華さをただ述べていたわけではないのです。明石上のたとえようのない深い悲しみを語るためです。
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稲井一雄:昭和二十年(1945)徳島市生まれ。生後4ヶ月の時、米軍のB29の空襲を受け、焼夷弾が家屋に二発命中し、火炎の中で奇跡的に救出された。高校卒業後、静岡大学人文学部に入学、国文学を専攻する。徳島県立高校七校で、現代文、古文を35年間教える。その間、徳島大学学芸学部国語教室に半年間国内留学、また、鳴門教育大学大学院学校教育コースに入学、2年後に卒業する。県立高校退職の後、私立徳島文理中学校高等学校で現代文を10年間教える。
趣味は、『源氏物語』古写本(影印本)を読むこと。ペンネーム「あやたけのぼる」で主に作詞を試みており、「鳴門便り」「徳島平野」「新町川」「阿波の土柱」「white sands」「熱き思いに」などの作品がある。その他、クラシックギターを弾くことや、新聞投稿すること。著作として、『稲井静庵の一族 阿波女性医師とその系譜』(風詠社、2024)がある。

