
徳島市在住 稲井一雄(いない・かずお)
(毎月第3水曜日、ロサンゼルス時間・午後6時から8時まで、オンラインで「源氏物語を読む」セミナーをカルチュラル・ニュースが主催しています。徳島市の稲井さんは、そのオンライン講座の参加者です)
(2025年4月7日改訂)
Cultural News主催「源氏物語を読む会」の意見交換で、華やかな宮殿生活での人々の排泄はどうしていたのかという質問が出ました。こうした質問が出るのは、会員にとっていい刺激です。また宮中でも宴会が開かれましたが、貴族達はトイレをどうしていたのかという質問も出ました。
源氏物語では、読者の知らないうちにトイレを済ませたさっぱりした人間しか登場しません。作者は、人物のプライベートに踏み込みすぎて興ざめるのは嫌だと考えたでしょうし、お話にならないほど誰もがよく知る日常事でもあったからでしょう。ですが、そうしたことを知らなければ作品が理解できないことがあります。「schema(スキーマ)」というものです。
桐壺(きりつぼ)の巻で説明します。光源氏がお生まれになった時の帝のご様子です。「いつになったら会えるのかと待ち遠しくお待ちになって、急ぎ参らせてご覧になります。」と書いてあります。なぜそんな表現になっているのでしょう。特に「待ち遠しく」、「急ぎ参らせて」といったフレーズに引っ掛かります。
桐壺の更衣は、懐妊三、四ヶ月ぐらいになると、帝にそのことを打ち明けたでしょう。そして母北の方のいる里第へ帰るお許しを戴きます。
お里に帰ると、そこでは数々の儀式が待っています。どの家にも負けずに「何事の儀式をも、もてなし」なさる北の方のことですから、手を抜いたりしません。着帯の儀、産屋の設置、加持祈祷(かじきとう)、産婆の侍候など、一連の儀式をします。そして皇子がお生まれになる段になると、勅使の派遣、臍(へそ)の緒を截る儀、乳づけの儀、うぶ湯・御湯殿の儀などを行います。勅使が派遣され、近衛中将がやって来て、お生まれになった皇子に御剣を賜わったことでしょう。
一方、宮中にいらっしゃる帝は、我が子の顔を早く見たいとお思いになったことでしょう。更衣に頻りに手紙をやって、早く参内するようにせっついたはずです。そこで、赤子の健康を確認した上で、親子共々急かされる思いで宮中へ馳せ参じたのではないでしょうか。乗り物のことも書かれていませんが、ここの主役は桐壺帝第二皇子ですから、牛車よりもっと格上の乗り物(輿など)だったのではないでしょうか。それに、牛車はとても乗り心地の悪い乗り物で、車酔いしたりします。以上、本文に書かれていませんが、当時の人々にとっては言わずもがなの事柄が背景になっています。ですから、「待ち遠しく」、「急ぎ参らせて」で分かるのです。
さて、平安時代のトイレ事情について、分かる範囲で述べておきます。
清涼殿(せいりょうでん)の東北の滝口(たきぐち、みかわ水の落ちる所)のあたりに、御厠殿(みかわどの)、御装物所(御よそおいものどころ)という便所があったそうです。帝が使用する所です。そこに樋筥(ひばこ)という便器が置かれていたでしょう。樋筥には、小便用と大便用とがありました。担当の下級女官が毎朝排泄物を捨て、便器を洗います。
後宮のお妃や女官(にょかん)たちの場合は、各お部屋に樋筥が置かれていたでしょう。使用済みのものは、樋洗(ひすまし)、御厠人(みかわうど、雑用、便器の管理をする人)といった下級の女官(にょうかん)が、内裏(だいり)の東北隅にある華芳坊(かほうぼう)の南の御樋殿(おひどの)まで運んでいって、そこで尿便を捨てました。
でも想像してみてください。女房(にょうぼう)たちは、ややこしくて重たい十二単(じゅうにひとえ)を着用しなければ、主上の御前ではお仕えできなかったのです。用を足すのは厄介です。そこで樋洗や御厠人を呼んで手助けをさせます。腰につけた長い裳は大変邪魔です。どうしたでしょうか。普段は袿姿(うちきすがた)ですから、裳はしませんが、それでも大変です。御簾(みす)で周りを囲み、袴を脱がせ、長い髪を前に回して帯の間に挟み、長い取手の付いたT字型の支えを清筥の背後に据えて、そこへ着物の裾を掛けます。側面は着物で隠れますので、そこへしゃがんで用を足したのです。一人でできる行為ではありません。
大内裏で勤務した男たちはどうしたでしょうか。便所がない訳にはいかないでしょう。宮城内の至る所に、扉のついた小屋みたいな厠(かわや)があったのではないでしょうか。
厠から取り出した便器の中の尿便を宮城外へ水と共に流したり、便器を洗ったりする関係で、大内裏の隅や便器の処理付近が汚れていたり、糞尿を流した排水孔が詰まったりしたでしょう。雨後の日に獄舎の囚人を使って清掃させました。
さて、源氏物語でも樋洗童(ひすましわらわ)、長女(おさめ)、御厠人(みかわうど)などといった下級女性が登場します。紫式部はどのような書き方をしたでしょうか。
源氏物語の須磨巻の場合です。光源氏は人目を忍んで追われるように須磨へ出発するのですが、その前に日頃親しくしていた人々に会ったり、お手紙のやり取りをしたりします。また夜になると月が出て、入道の宮(出家なさった藤壺の女御)にお会いになり、故院(桐壺帝)の御陵に参拝します。二条院に戻ると、幼い春宮(とうぐう)にお別れのお手紙を出します。春宮は表向き桐壺帝の皇子ですが、藤壺の女御(にょうご)と光源氏との間に生まれた御子です。もちろんそれは秘密です。親しくしている女房、王命婦(おうみょうぶ)を介して東宮にお手紙を差し上げます。王命婦は源氏を藤壺に手引した女房で、入道(出家した人)となっている藤壺の代わりに東宮に仕えています。幼い東宮のためにお手紙の代筆をして差し上げます。お返事を源氏にお返し申し上げた後(そうそう、そんな場面でも源氏の文使いが東宮殿の外で控えていたでしょう。)、東宮の御所内では、みんなこぞって源氏の不運を嘆き悲しむのです。
そこからです。「長女(おさめ、雑用係)」「御厠人」が登場するのは。一目でも源氏のお姿を見申し上げたことのある者は、落胆した源氏のご様子を嘆き惜しまない者はいませんでした。ましてや、常日頃お側近くに参上した者は言うに及ばず、源氏がそこまでご存じないはずの「長女」や「御厠人」までもが、滅多にないご恩顧を蒙(こおむ)ってきたのですから、少しの間もお顔を見申し上げないで過ごせようかと思い嘆くのです。とまあ、そんな書き方をしています。
また、常夏巻の場合はこうです。源氏のライバル、昔の頭中将、今は内大臣ですが、彼には出来の悪い娘、近江君がいました。内大臣はその娘に何かと手を焼きます。そこでもう一人の娘、近江君にとっては姉君の弘徽殿の女御(こきでんのにょうご)の許に彼女を託そうかと考えます。近江君もすっかりその気になり、姉の弘徽殿の女御にお手紙を出します。それがまたへんちきりんなものだったのです。女御は側近の中納言に返事を任せます。中納言始め、他の女房たちはそのお手紙を見て、おかしさに耐えきれず、かといってご主人様の妹君であられるから声を出すわけにもいかず、含み笑いをします。そこで「樋洗童」の登場です。近江君は「樋洗童」を文使い(手紙の配達係)にさせていたというのです。人物を物語の展開にうまく合わせています。
源氏物語では、以上のようにトイレを直接書くことはしませんが、今昔物語の巻第三十「平定文假借本院侍従語第一(たいらのさだふん、ほんいんのじじゅうにけそうすること、だいいち)」では、糞尿のことまで赤裸々に書いています。作者は人間の本性を浅ましいまでに暴き出して、この世に生きる人々のために教訓を与えています。
兵部の佐(すけ)平定文、字(あざな)を平中(へいちゅう)という色好みがいました。藤原時平の邸に侍従の君という若い女房がいました。平中は彼女の噂を聞きつけ、懸想をします。彼女から返事が来なかったので、彼は次のような手紙を書きます。「せめてわたしの手紙を「見つ」という二文字だけでもお書きになって下さい。」と。すると女から手紙が届きました。彼は小躍りして開けるのですが、女の冷淡なあしらいの手紙です。彼が手紙に書いた「見つ」の二文字をちぎって、薄様の紙に押し付けてあったのです。彼は悔しいやら、妬ましいやら、腹が立つやら。
それから数ヶ月経ち、平中は五月雨(さみだれ)の降りしきる夜に彼女に会おうとします。闇夜にずぶ濡れになって行くのですから、相手はきっと憐れんで心を許すだろうと考えたのです。彼女の局(つぼね)に近づくと、女童(めのわらわ)に会い、彼女の手引きでまんまと家の中へ入ることができました。
憧れの女は臥所で休んでいました。暗がりの中で彼女の身体をあちこち触れると、がくがく体が震えます。すると、女が「他に誰か人が来るといけないから、隔ての障子に掛け金をかけてきます。」と言うのです。男は天にも昇る気持ちがしました。
女は起き上がり、上に羽織った衣を残して、単衣(ひとえぎぬ)・袴姿で立っていきます。掛け金を掛ける音がしました。しかしいくら待っても女は戻ってきません。謀られてしまいました。
男はまたこう考えます。女の欠点を見つけてやろう。そうすれば、自分の思いが消えるであろうと。ところが彼女に欠点が見つかりません。そこで最後にこう考えます。いくら彼女が素晴らしい女性だろうと、排泄物を奪ってはどうだろうか。それで女を諦めることができるのではないかと。ユーモアとペーソスたっぷりです。
そこで便器「清筥(しのはこ)」の登場です。平中が彼女の局に忍び込もうとした時です。偶然女童が現れました。排泄物の入った清筥を処理しに行こうとする所でした。便器を運んでいく女童の仕草のなんと奥ゆかしいこと。筥は立派な漆塗りで、それを丁子染(ちょうじぞめ)の薄物に包み、絵が描かれた赤い色紙の扇で差し隠しながら運んでいたのです。男は便器を奪い取って逃げ去りました。女童は男に向かって泣き叫びました。
家に便器を持ち帰った男は、女への未練から中身を見るのをしばらくためらっていましたが、思い切って開けます。すると、えも言われぬ丁子の芳しい香りがするではありませんか。実物を見ると、大指の太さばかりの黄ばんだ物がありました。長さ七センチ前後のものが三切れほど、丸い塊になっていました。あまりにもいい匂いで、男は鼻を近づけて匂いを嗅いだり、とうとう啜ったり、舐めたりします。舐めると苦くて美味かったというのですから呆れます。男は却って女に焦がれ、なんとかして会いたいと思う気持ちが昂じ、そんな心痛が積もり積もって、とうとう病を得て死んでしまいます。
そんな今昔物語の影響を受け、近代になって芥川龍之介や菊池寛が傑作を書いています。若者が姫君に懸想する話を取り上げた芥川の短編を、わたしは若い頃に読みました。今も若者が姫君の御虎子(おまる)を持って逃げ去るシーンが浮かんできます。
時代が下って江戸時代になると、汚穢屋(おわいや)という職業がありました。落語に登場したりします。各民家から人糞を購って仕入れ、農家に売っていました。共同トイレの所有者である大家さんにとっては、いい収入源だったらしいです。農家では母屋とは別棟に便所を設けていました。
厠(かわや)は、その名の通り、水の流れを利用した便所を意味します。わたしは幼児の頃、山間部に住んでいて、隣家の厠を利用させてもらったことがあります。その家は川べりに立っていて、厠に入ると、下から真冬の冷たい風が吹き込んできたりしました。便器から下を覗くと、肝心の着地点は遥か下で、河原がちらと見えました。恐々(こわごわ)と体がすくんだことを覚えています。厠は大変古い形態で、奈良時代からあったそうです。
もう一つおまけです。以前の中国において、用を足そうとすると、便器の下にその家の豚が鼻を上向きにして近寄ってきたということです。なかなか用を達することができなかったそうです。中学生の頃に学校の先生から聞きました。
以上、これでこんな話は終わりにします。
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稲井一雄:昭和二十年(1945)徳島市生まれ。生後4ヶ月の時、米軍のB29の空襲を受け、焼夷弾が家屋に二発命中し、火炎の中で奇跡的に救出された。高校卒業後、静岡大学人文学部に入学、国文学を専攻する。徳島県立高校七校で、現代文、古文を35年間教える。その間、徳島大学学芸学部国語教室に半年間国内留学、また、鳴門教育大学大学院学校教育コースに入学、2年後に卒業する。県立高校退職の後、私立徳島文理中学校高等学校で現代文を10年間教える。
趣味は、『源氏物語』古写本(影印本)を読むこと。ペンネーム「あやたけのぼる」で主に作詞を試みており、「鳴門便り」「徳島平野」「新町川」「阿波の土柱」「white sands」「熱き思いに」などの作品がある。その他、クラシックギターを弾くことや、新聞投稿すること。著作として、『稲井静庵の一族 阿波女性医師とその系譜』(風詠社、2024)がある。

