Gloria Steinem and Japan — What the “Beautiful Feminist” Left Behind
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【PRI】グロリア・スタイネムと日本――「美貌のフェミニスト」が残したもの
在米ジャーナリスト 髙濱 賛 (Tato Takahama)
Pacific Research Institute
2026年9月3日
グロリア・スタイネム氏が92歳で亡くなった。米国の女性運動を象徴するジャーナリストであり、活動家だった。1970年代から半世紀以上にわたり、女性の権利、男女平等、妊娠・出産をめぐる自己決定権(Reproductive Rights)を訴え続けた。その名前と大きなサングラス、中央で分けた髪型は、米国のフェミニズムそのもののように世界に知られた。
しかし、スタイネム氏には、もう一つ興味深い顔がある。美貌である。美人であるということはつらいことである。
本人は後年、「公にフェミニストと呼ばれるようになるまで、誰も私を美しいとは言わなかった」と語っている。仕事で積み上げたものまで「容姿のおかげ」と片づけられることが、最も傷ついたという。美しい女性が知性や能力より先に外見で評価される。彼女が戦ったのは、実はそうした社会そのものでもあった。
1963年、若いジャーナリストだったスタイネム氏は、ニューヨークのプレイボーイ・クラブにバニーガールとして潜入した。目的は、女性従業員がどのように扱われているかを取材することだった。後に「A Bunny’s Tale」として発表され、彼女の名を一躍知らしめた。本人はこの潜入取材を、後になって「大きな間違いだった」と振り返っている。それでも、この経験は女性の身体と労働、そして男性中心社会の構造を告発するジャーナリストとしての彼女を世に送り出した。
スタイネム氏と日本との接点は、意外に早い。
1978年11月、彼女は日本を訪れた。当時の日本では、米国の女性解放運動はまだ一般社会に広く浸透していたとは言い難い。そのスタイネム氏を日本に紹介する重要な役割を果たした女性がいた。道下匡子氏である。
道下氏は1978年、日本の女性誌のためにスタイネム氏にインタビューした。ウィスコンシン大学マディソン校の紹介によれば、この記事は、当時日本ではまだ十分に知られていなかったスタイネム氏を日本の読者に紹介する役割を果たした。二人はその後も親交を続けることになる。
興味深いのは、このインタビューが単なる雑誌記事ではなかったことである。スタイネム氏の発言を日本社会にどう伝えるかについて、道下氏は編集者たちと向き合わなければならなかった。米国では女性解放運動の旗手として知られていたスタイネム氏の思想の一部は、当時の日本では「危険すぎる」と受け止められたという。そこで日本の雑誌では、思想そのものよりも、スタイネムという一人の女性の人物像に焦点が置かれた。
このエピソードは、米国のフェミニズムが日本にそのまま輸入されたわけではないことを示している。文化も社会も違う。だからこそ、誰かが言葉を翻訳し、意味を置き換え、日本の読者に届けなければならなかった。その役割を担ったのが道下氏だった。
1985年6月、スタイネム氏は再び東京を訪れる。この訪日は、三笠書房から日本語版が出版された彼女の著作の紹介とも結びついていた。同年6月には『プレイボーイ・クラブ潜入記――新・生きかた論』が道下氏の翻訳で刊行されている。国立国会図書館の記録でも、原著者スタイネム、訳者道下匡子、三笠書房、1985年6月という書誌情報が確認できる。
東京では東京アメリカン・センターで講演した。その内容は同年10月の『TRENDS』に掲載され、日本の各分野のリーダーに広く配布された。また、スタイネム氏は日本の女性団体とも接触し、日本家族計画連盟とも面会している。帰国後、同団体から感謝の手紙が届いたことも、彼女の資料に残っている。
ここで注目したいのは、スタイネム氏が日本で単に「米国の有名人」として講演したのではないことである。女性の身体、避妊、妊娠、出産を誰が決めるのか。女性は家庭の中だけでなく、社会や政治の意思決定に参加できるのか。彼女が米国で問い続けてきた問題が、日本の女性たちとの対話のテーマになっていった。
そして、もう一人、日本との関係で考えておきたい女性がいる。現在の高市早苗氏である。
高市氏は1987年から1989年にかけて、コロラド州選出の民主党下院議員パトリシア・シュローダー氏の事務所で働いた。高市氏自身が米国に渡ってシュローダー氏の仕事ぶりを学ぼうとしたことが、現在の元同僚の証言などから明らかになっている。当時のシュローダー氏は、女性の政治参加を強く訴え、1988年大統領選への出馬も模索した米国政界の著名な女性政治家だった。高市氏はその事務所で、女性問題に取り組むスタッフと働き、シュローダー氏が女性団体と意見交換する際にも同席していたという。
そして、ここでスタイネム氏とシュローダー氏がつながる。1974年、デンバーで撮影された写真には、スタイネム氏とシュローダー氏が並んで写っている。二人は1970年代の米国女性運動を代表する女性たちだった。シュローダー氏は議会から、スタイネム氏はジャーナリズムと社会運動から、女性が政治と社会の中心に立つことを求めた。
だからといって、「高市氏はスタイネム氏の影響を受けた」と結論づけることはできない。高市氏がスタイネム氏の著書を読んだ、本人に会った、あるいはその思想を政治的なモデルにしたという直接の証拠は、現時点では確認できない。むしろ高市氏自身が後に政治家として目標に挙げたのは、英国のマーガレット・サッチャーである。
しかし、歴史の皮肉はそこにある。
若き日の高市氏がワシントンで選んだ師の一人は、米国のフェミニズムと女性政治家の歴史を体現するシュローダー氏だった。そして、そのシュローダー氏はスタイネム氏と同じ女性運動の時代を生き、実際に行動を共にしていた。つまり、スタイネム氏から高市氏へ直接一本の線を引くことはできなくても、二人は同じ米国女性運動という大きな歴史の中に位置づけることができる。
しかも、この二人の現在の政治的立場は大きく異なる。スタイネム氏はリベラルなフェミニズムの象徴となった。一方、高市氏は保守政治の側から日本の政治権力の頂点を目指してきた。だからこそ、この二人を並べることには意味がある。
女性解放とは、必ずしも一つの政治思想を意味しないのではないか。女性が自分自身の人生を選び、自分の声で政治を語り、男性だけが握ってきた権力の場所に入っていく。その「入口」を広げるところまでは、スタイネム氏と高市氏の歩みには、時代を超えた共通点が見える。
一方、スタイネム氏が日本に残した直接的な足跡は、やはり道下匡子氏を抜きには語れない。
道下氏はスタイネム氏の著作を日本語に訳した。国会図書館には、1985年の『プレイボーイ・クラブ潜入記――新・生きかた論』、1987年の『マリリン』、1994年の『ほんとうの自分を求めて――自尊心と愛の革命』が、いずれも道下氏の翻訳として記録されている。
特に『マリリン』は興味深い。スタイネム氏はマリリン・モンローを単なる「セックス・シンボル」としてではなく、仕事、金、セックス、政治、肉体の牢獄という視点から描いた。つまり、彼女が関心を持っていたのは、女性の美しさそのものではなく、美しさを社会がどう利用し、女性自身がその身体をどう生きるかという問題だった。
スタイネム氏が日本について語った言葉の中にも、彼女の問題意識が表れている。1970年代の講演で彼女は、日本の人口政策と避妊・中絶をめぐる経験を例に挙げ、女性の生殖に関する選択を国家が決めることへの警戒を示した。日本は彼女にとって、単純な「進んだ国」「遅れた国」ではなかった。むしろ、人口政策という国家の都合と、女性自身の身体をめぐる選択が衝突する具体例だった。
そして、スタイネム氏自身の人生にも、晩年になって大きな転換があった。
2000年、66歳でデービッド・ベイル氏と結婚した。ベイル氏は俳優クリスチャン・ベイルの父で、環境問題にも関わった人物だった。二人は1999年にロサンゼルスで出会い、翌年オクラホマ州で結婚した。結婚式を執り行ったのは、元チェロキー族の女性指導者ウィルマ・マンキラー氏の自宅だった。
生涯独身を貫くと思われていたスタイネム氏が66歳で結婚したことは、当時大きなニュースになった。しかし本人は、結婚によって自分が変わったのではなく、「結婚という制度についての考えが変わった」と説明した。フェミニズムとは、結婚しないことを選ぶ自由ではなく、その時々の自分にとって正しい人生を選ぶ自由でもある。彼女はそう考えた。
ベイル氏は2003年に亡くなった。結婚生活はわずか3年だった。それでも、この遅い結婚は、スタイネム氏のフェミニズムを理解するうえで象徴的な出来事だった。
「女はこう生きるべきだ」という新しい規範を作ることではない。結婚しないことも、結婚することも、子どもを持つことも、持たないことも、自分で決められること。スタイネム氏が最後までこだわったのは、その選択の自由だった。
日本で彼女の名前が最初に広く紹介された1978年から、1985年の東京訪問、そして道下氏による著作の翻訳までを振り返ると、スタイネム氏の日本への影響は、必ずしも大きな政治運動として残ったわけではないことが分かる。
むしろ、一冊の本、一人の翻訳者、一度の講演、一つの出会いとして、静かに日本社会へ入り込んだ。
そして、その先には意外な人物もいる。
スタイネム氏と同じ米国女性運動の時代を生きたシュローダー氏。その事務所に20代の高市早苗氏がいた。二人の思想は現在、ほとんど正反対と言ってもいい。しかし、女性が「誰かの妻」や「誰かの娘」ではなく、自分自身の名前で政治の舞台に立つという光景が当たり前になるまでには、スタイネム氏らが切り開いた長い道のりがあった。
スタイネム氏が日本に残したものは、特定の政治思想だけではない。「女だから」という理由で、最初から舞台の外に置かれない社会。そして、どんな思想を持つ女性であれ、自分の言葉で、自分の人生を選び、自分の責任で権力に挑むことのできる社会 -。
スタイネム氏の死を機に考えたいのは、そのことではないだろうか。
ご冥福をお祈りします。
参考文献
- Reuters, “Feminist activist Gloria Steinem dies at age 92,” September 3, 2026.
- Associated Press, “Gloria Steinem in her own words on women’s rights, abortion politics and being called the B-word,” September 3, 2026.
- Jessica Lancia, University of Florida, Gloria Steinem Papers, pp.102–103.
- University of Wisconsin–Madison, “UW alumni blazed trail for women in Japan through writings and translations.”
- 『プレイボーイ・クラブ潜入記―新・生き方論』、三笠書房、1985年。
- 『マリリン』、草思社、1987年。
- 『ほんとうの自分を求めて―自尊心と愛の革命』、中央公論社、1994年。
- U.S. House of Representatives, History, Art & Archives, “Patricia Scott Schroeder.”
- Nursing Clio, “Are We Free to Be President Yet? The Legacy of Pat Schroeder and 1970s Feminism.”
- テレビ朝日, 「高市総理の政治家の原点 アメリカで仕えた大物女性議員『勉強熱心』元同僚の証言」.
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Gloria Steinem and Japan — What the “Beautiful Feminist” Left Behind
By Takahama Tato
Pacific Research Institute
September 3, 2026
Gloria Steinem, the woman who became the most recognizable face of the American women’s movement, died in New York on September 2 at the age of 92. For more than half a century, she was a leading advocate of gender equality and women’s freedom, including the right to make decisions about pregnancy and childbirth.
Steinem was also famous for her beauty. She bristled at the suggestion that her appearance explained her success. In 1963, she famously went undercover as a Playboy Bunny, exposing the exploitation of women who worked at the club. Her journalism eventually drew her into the women’s movement and, in 1972, into the founding of Ms. magazine.
But what did Steinem leave behind in Japan?
Her influence in Japan was far less visible than in the United States. She first established ties with Japanese feminists in the late 1970s, when she was interviewed in Japan by Kyoko Michishita, a writer and translator who had made it her mission to introduce American feminism to Japanese women.
Michishita later called herself a “self-appointed Ms. agent in Japan.” She translated Steinem’s work and helped bring her ideas to Japanese readers at a time when some of Steinem’s feminist arguments were regarded by Japanese editors as too radical for publication.
Steinem returned to Japan in June 1985, following the publication of a Japanese collection of her writings. She lectured at the Tokyo American Center and met with Japanese women’s organizations, including the Family Planning Federation of Japan. Her lecture was later published and distributed by the U.S. Embassy in Japan.
There is another, more unexpected Japanese connection: Sanae Takaichi.
In the late 1980s, as a young woman in Washington, Takaichi worked in the office of U.S. Rep. Patricia Schroeder, a prominent Democratic congresswoman and outspoken feminist. Schroeder was part of the same generation of American feminist politics in which Steinem had emerged as a defining figure.
There is no evidence that Takaichi was directly influenced by Steinem. Indeed, Takaichi has identified Margaret Thatcher as one of her political role models. Yet the historical connection is striking. A young Japanese woman who would eventually become Japan’s first female prime minister chose, at the outset of her political career, to work for an American congresswoman deeply engaged in the women’s movement.
Steinem and Takaichi would eventually stand on very different sides of the political spectrum. Yet both entered political worlds long dominated by men. Their stories raise a larger question: Must women’s liberation necessarily be identified with a particular political ideology?
Perhaps Steinem’s most enduring contribution to Japan was not a political doctrine but an example. Through Michishita’s translations, her lectures, and the Japanese women who encountered her ideas, Steinem demonstrated that a woman could enter a male-dominated world, challenge its conventions, and still define the terms of her own life.
She married at 66, had no children, and said she never regretted that choice. For Steinem, freedom meant precisely that: the freedom to choose.
Her legacy in Japan, therefore, may be found not only among feminists, but also among women who chose a different political path.
References
Reuters, “Feminist activist Gloria Steinem dies at age 92,” Sept. 3, 2026.
Associated Press, “Gloria Steinem in her own words on women’s rights, abortion politics and being called the B-word,” Sept. 3, 2026.
Jessica Lancia, University of Florida, Gloria Steinem Papers, pp. 102–103.
University of Wisconsin–Madison, “UW alumna blazed trail for women in Japan through writings and translations.”
U.S. House of Representatives, “Patricia Scott Schroeder.”
Playboy Club Tōnyūki, 1985; Marilyn, 1987; Hontō no Jibun o Motomete, 1994.
Note: English translation was prepared by the author. Translation assistance tools may have been used.
