石井志をんの短歌研究、家族の歌:大竹幾久子 「いまなお原爆と向き合って」(その一)

大竹幾久子(おおたけ・きくこ)
「ただ一度母哭くを見き 原爆死の父のものとう遺骨受けし日」
『いまなお原爆と向き合って』より

大竹幾久子(旧姓古田幾久子)は津田塾大学を卒業後、アメリカの大学院に留学中の大竹博と結婚するために渡米した。ロサンゼルスの生活が長くなる中で、向学心が旺盛な大竹幾久子は、アメリカで日本語を教えてみたいと自宅に近いカリフォルニア州立大学で、修士号を取得し、10年以上パサディナ・ シティ・ カレッジで教えたほか、2校の州立大学や他のコミュニティ・カレッジでも教えた。

大竹幾久子には小説新潮、オール讀物、朝日新聞、NHK、海外日系文芸祭、明治神宮献詠短歌大会等に入選した数多くの短歌が有る。その他に著書も有り、その一つ「いまなお原爆と向き合って」は中学、高校の選定図書になった。この本は柔らかな広島弁で語る母の述懐で始まる。まるで一遍の詩を読むように語り掛けるが、読むうちに、溢れ出る涙を抑えきれず私は前に進むことが出来なかった。

この本は世界の誰もが人が読むべき貴重な歴史証言の書である。

大竹幾久子は1945年8月6日、爆心地からわずか1.7キロの広島市で被爆している。その時彼女は5歳であった。

その朝彼女は隣の従兄と弟と一緒に道でままごとをして遊んでいた。スプーンか何かを取りに台所に駆け戻ると弟もついてきた。その時原爆投下。道で待っていた従兄は後に白骨死体で見つかっている。

3度目の赤紙で召集されていた父は爆心地の軍事基地で被爆死した、が、それを知らない家族は父を探して歩き回る。家を焼かれ、帰る処も無く河原で2週間過ごし、その間黒い雨に濡れた。当然発症した子供たちの原爆症の症状は何週間も続く激しい下痢と寝ていても体を動かせないほどの倦怠感を伴うものだった。やがて母も原爆症で倒れた、彼女には熱が有り、髪の毛が抜けていった。

入退院を繰り返した後、家族は広島市郊外の五日市市に移り、その年の12月頃からどうやら普通の暮らしが出来るようになった。

原爆投下時にたまたま家の中にいた母と兄と弟と幾久子の命は奇跡的に助かり、また惨い火傷を負う事からも免れたが、爆風で崩壊した家の下敷きになり、全員が負傷していた。左腕が10センチも裂ける大怪我をした母は肘から下を切断しなければ肩から切断することになるだろうと医師に言われた。が、彼女は手術を拒み、気力と赤チンを塗るだけでそれを直してしまったと言う。

原爆の翌年、1月に父の死亡告知書を受け取る。「遺骨」は粗末な紙箱に入っていてコトリと小さな音がした。それは父のものであるはずもなかった。軍馬の骨も混ざった山の中から一本拾っては紙箱の中に入れたものだったのだから。

母はそれを床の間に置いて号泣した。幾久子は「ああお母さんが泣いている」と思った。

言うまでも無く冒頭の短歌は、この時の記憶を詠んだものである。まだ5歳程の少女の頃の記憶はあまり定かなものではない。幼過ぎて原爆の悲惨な記憶は無くても、気丈な、何があっても涙を見せない母がその時ばかりは慟哭した、他の何を憶えていなくてもその姿は少女の脳裏に刻まれたのである。

平和主義者で軍人になる気は無かった父が3度赤紙を受け取っている。近視と乱視の為眼鏡が無ければ生活できぬ者は兵隊に適応せずと2度は返された。だが戦況が悪化して、兵隊は成人男子なら誰でも良いと言う時代になっていた。 3度目の赤紙が来た時、外地では戦死するからと、身内があらゆるコネを使って大きな軍事基地のある広島に駐屯させた。そこは幾久子たちの家から2キロにも満たない距離に有った。

「父は死に我は生きたり原子雲の下で2キロを離れただけで」 朝日歌壇

(敬称略)

 

歌人・石井志をん:千葉県出身、カリフォルニア州、サンタクルーズ・カウンティー フェルトン市在住(カリフォルニア短歌会会員、新移植林会員)

二〇二一年三月記

(注、カリフォルニア短歌会はロサンゼルス在住の松江久志主宰、新移植林はロサンゼルス在住の中條喜美子主宰、どちらにも北米と日本の歌人が在籍する)

関連リンク:読書感想 『いまなお原爆と向き合って』
https://digest.culturalnews.com/?p=16561