2020年9月1日、ロサンゼルスにて、板橋恵理
このコロナ環境下に置かれ、既に半年経とうとしている。生活様式が早く元に戻るよう願う中、マスク着用は今後も続くし、感染を防ぎ減少させるのには必要だ。
それまでは需要のあまりなかったマスクも、当初は売りきれになったり、皆何軒かのドラッグストアーを駆け回ったり、アマゾン経由で買い求めたものだ。テレビやユーチューブで、マスクの作り方やつけ方を放映し、手先の器用な人たちは、古いティーシャツの袖を利用してマスク作成など、様々な形、色彩、デザインを基にしたマスクを見るのは、事態の厳しさ、重大さがあってこその目と心の保養になった。
不器用な私も早速ミシンを購入し、試行錯誤しながらも簡単なマスクをいくつか縫った。
日本や他諸々のアジア国において、マスク着用は日常生活に溶け込んでいるが、マスクに慣れてなかったアメリカ人たちにとり、生まれて初めてマスクを購入、着用した人たちも多いだろう。かつ厄介なことと思われているようだ。確かにマスクはサングラスやめがねを曇らせたり、暑い日には口の周りが汗ばんでくる。人と話しているときには、マスクが鼻からずり落ちてくるし、お互いの声が聞こえにくいこともあるので、つい大声で喋りがちになる。
しかしマスクは顔半分以上をカバーしてくれるので、日焼け止めや化粧をしなくてもよくて楽だと、私同様に他の女性たちも同感するのではないか。その代わりに色とりどりのマスクを毎日するのが楽しみになる。
アメリカでは当初マスクは、持病や特定の心身状態のある人たちには向かないとの批判があり、着用規定は個人の権利や自由を奪うと抗議するアメリカ人さえもいた。しかし歯医者や病院の医者は普段でもマスクをしている。これは患者だけでなく、自分たちの周りを感染から守る為、つまりお互いの為である。お互いを守るのに、個人の権利や自由がどうのこうのと言うのは理解し難いような気がする。
マスクをしている人たちの権利や自由はどうなのか。と言うよりもマスクをする、しないは、もともと討論に至るのがおかしいのではないだろうか。アメリカ人がよく口にする、「フリーダムオブスピーチ (Freedom of Speech)」という言葉が乱用、誤用されているような気さえする。
誰だって早くのコロナ終息を願っているし、マスクなしの、制限のない自由な生活に戻りたいだろう。しかし人生の中で起こる色々な葛藤、苦悩、不運を体験し、乗り越えてこそ、本当の意味での自由を得ることが出来るのではないかと、今日も色彩豊かなマスクを縫いながら思う。
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板橋恵理=関東地域で生まれる。家族の転勤と学校のため、幼年期から現在にいたるまで、日本ーヨーロッパー日本ーアメリカで生活する。現在は、アメリカ人の夫と老猫とロサンゼルスに在住している。趣味のひとつである太鼓にはまり、5年がたつ。老猫の名前もタイコ。
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