Kakeuta at Rokugo, Misato, Akita

秋田県美郷町六郷の掛け歌(写真提供=宮崎隆)

万葉集の時代、ひとびとは、思いを歌にして朗々とうたい、その歌を受けたひとは、歌による即興で、応えたといわれています。この行為に「歌垣ということばが残されています。

万葉時代から続いているわけではありませんが、秋田県には、この「歌垣」の復活ともいえる「掛歌」が行われています。秋田の「掛歌」はここ100年以内に復活したと言われています。

カルチュラル・ニュース編集長・東繁春の長年の友人・兵庫県芦屋の宮崎隆さんから<今年の「掛唄」に行きませんか>とお知らせが届きました。宮崎さんは、もともとは中高一貫私立学校の国語の先生でした。その後フリーランスで、自分の塾やチューターで日本語での表現方法を教えています。最近は、また関西の私学で先生をやっています。その宮崎さんが何十年と追いかけているのが、秋田県で行われている「掛歌」です。「掛歌」は毎年、8月23日の夜、秋田県美郷町の六郷の熊野神社で、9月15日の深夜は、秋田県横手市金沢の八幡宮で開催されています。

宮崎隆さんの日程:8月22日(土)~ 24(月)二泊三日

行先:秋田県仙北郡美郷町六郷、熊野神社境内

8月22日の午後3時、角館駅集合、24日の正午、角館駅解散の予定です。宮崎さんは、8月22日、新大阪08:24発で角館14:20着の予定です。今年の六郷「掛歌」を体験してみたい方は、カルチュラル・ニュースまで、連絡してください。宮崎さんに紹介します。

カルチュラル・ニュース編集長、東 繁春   「掛歌」ツアーの申し込みは、higashi@culturalnews.com へメールしてください。

遠い民謡の真の魅力  宮崎隆

(抜粋)民謡の魅力は、直接的、即興的、対人的なところにあるのであって、その粋な文句や美しい朗唱にあるのではないと、わたしは考えている。だから、いくら昔流行ったからと言って、あるいは、大事な作業歌だったからと言って、さらには伝統文化の粋だからと言って、それを唄い継ごうとか、もう一度はやらせようとしても無理なのだと思う。もちろん、失われていく伝承民謡を記録し保存することは、それなりの意味があろう。しかし、もう民謡で稼ぐことには限界があろうと思う。民謡は商売の対象にしないところにあったのだから。

この「いま、ここで」唄があることが民謡の最大の魅力だ。あえて「だった」と過去形にはしない。「いま、ここで」相手に歌い掛け、その声と言葉と旋律を分かち合うからこその楽しさが民謡のすばらしさだ。「いま、ここで」こそ、歌の優劣の基準があり、それはよそでは通用しない価値なのが民謡の意味合いなのだ。だから、ライブを聴いているだけではだめなので、参加しなければつまらない。別に歌わなくてもいいのだが。あなたが「いま、ここに」いるかどうかが問題なのだ。盆踊りに参加する楽しさがそれをよく物語っている。学校で踊った「ソウラン節」もそうだろう。少年たちのしなやかな動きが、ニシン漁に勇躍する若者を彷彿とさせる。

その「いま、ここで」をいまも続けているところがある。(もちろん各地に残った民謡酒場もそうだろうが)秋田県のいくつかの民謡シーンがそうだ。郷土の文化伝承を守りましょう、的な教育委員会発想でしか、ことは進められそうもないから、そういう「偽善的」(敢えて言葉が過ぎるが)イベントとして行われているから、ちょっとわかりにくいかもしれないが、秋田には、まだ「いま、ここ」民謡が生きて続けている。

分けても美郷町六郷と、横手市金沢とに生き続けている「掛唄」こそは、その代表格で、わたし自身は“世界遺産”ものだと確信している。「仙北にかた節」という長く伸ばして歌う旋律に、即興の歌詞を載せて、相手と掛け合うという歌合戦だ。「あれは頭がよくなくてはできねぇ」とみんな言うが、それはほんとうではない。「音痴」だって、それはNHKのど自慢のことであって、ここには別の基準があるから、何らかまわない。相手の女性に公然とモーションを掛けることができる。なにしろ昔は、気が合った男女が、幾組も神社の後ろの林の中に消えたと言う。さらには、夜から始まって朝、夜が明けるまで競い合うのだ。不思議に歌い手は酒を飲まない。酔って登場するのも自由だが、それは余興。みんな恐ろしく真剣に勝ちたがっている。審査員がいるが、決して唄の指導はしない。「バシバシ掛けろ!」と言うばかりだ。そしてだれが優勝しても、みんな納得するところがあるらしく不平は出ない。「朝食会」は実になごやかだが、もう「掛唄」ではなくなっている。一年に一回、一夜の饗宴なのである。わたしは、このとき歌われる「ことば」こそ日本語の原点だと思っている。ぜひ一度体験してほしいものだ。