ロサンゼルスの「チーム河内音頭」に届けたい「河内音頭・覚書」兵庫県西宮の民謡研究家から
遠音さす音頭の響き ~「河内音頭」覚書~
兵庫県西宮市在住 宮崎隆 みやざき・たかし(2024.2.22.発表)
子どものころの夏の夜、野らの向こうから聞こえてくる歌声、それが「河内音頭」に触れた最初の経験だった。戦後すぐに、父は、大阪、南河内郡の大美野(現、堺市東区)という新興住宅街に家屋敷を購入、東京から引っ越して、映画会社の大阪支店に通勤するようになった。かなり裕福な暮らしだったが、わたしは、異郷の地での戸惑いと孤独の中にいたのだった。第一、言葉が通じないし、生活習慣がまるで違っていた。当時はまだ周囲に農地が多く、金剛・葛城連峰がよく望めた。その声は、出入りの植木屋さんたちのいる集落から聞こえて来るらしいが、「盆踊り」に行くことは禁止されていたので、まるで異民族の習俗であり、禁断の味がするものだった。しかし、「遠音さす」その声は、文句は分からないながら、不思議に胸に響く哀調のあるものだった。
家の事情が複雑で、父は、実は祖父であり、実父は、その祖父の部下にあたる人で、まるで他人のように2階の一室に暮らしていた。そして、その実父の父親にあたる人は、廣澤寅吉という浪曲師で、なんでも有名な廣澤寅蔵の兄弟子だったとか聞く。つまり、血縁的には、わたしには「浪曲師」の血が流れているらしい。そして、後年、「河内音頭」のことを調べていたら、戦後、大きなインパクトを与えたのが浪曲だったっと聞き、何か運命的なものを感じたのだった。小沢昭一さんの『日本の放浪芸』の中には、寅吉へのインタビュウ記事があり、それによれば、浪曲の方が、その昔、「河内音頭」の元祖とも言うべき「江州音頭」の流行から成立していったようにも書かれてあり、鶏が先か卵が先かに似ている。宮崎の父が肝入りで、駅前の小屋で、浪曲大会が開かれ、大盛況だったことも記憶にある。つまり、「河内音頭」は、わたしにはなじみがないが、なにか無視できない存在なのだ。その猥雑さや勝手放題が嫌でありながら、引きつけられもしたのだった。
盆踊りと言えば、「佐渡おけさ」「西馬音内盆踊り」……、華やかさと哀調の入り混じった夏の夜の民俗。先祖供養と恋の解放の甚句踊り。大正9年(1920年)の三陸海岸の一寒村のそれを書き留めた、柳田国男の「清光館哀史」の美しい文章。(今も伝承されている岩手県民謡「なにゃとやら」の素朴な歌詞が記録され、それについて、つぎのように解説する。)
古いためか、はたあまりに簡単なためか、土地に生まれた人でもこの意味がわからぬということで、現に県庁の福士さんなども、何とか調べる道がないかといって書いて見せられた。どう考えてみたところが、こればかりの短い詩形に、そうむつかしい情緒が盛られようわけがない。要するに何なりともせよかし、どうなりとなさるがよいと、男に向かって呼びかけた恋の歌である。
ただし大昔も筑波山のかがいを見て、旅の文人などが想像したように、この日に限って羞(はじ)や批判の煩わしい世間から、のがれて快楽すべしというだけの、浅はかな歓喜ばかりでもなかった。忘れても忘れきれない常の日のさまざまの実験、やるせない生存の痛苦、どんなに働いてもなお迫ってくる災厄、いかに愛してもたちまち催す別離、こういう数限りもない明朝の不安があればこそ、
はアどしよぞいな といってみても、 あア何でもせい
と歌ってみても、依然として踊りの歌の調べは悲しいのであった。
わたしの民謡研究の原点にもなったこの文章から想像される盆踊りと、「河内音頭」との差異の大きさに戸惑ってしまう。第一、「河内音頭」は、「民謡なんかでは全然ないところが河内音頭のパワーの秘密であり、素晴らしいところ」とまで朝倉喬司は言う。(『日本一あぶない音楽・河内音頭の世界』1991年)しかし、甚句が民謡なら、音頭もそうだと、わたしは考える。安永寿延は、民謡について、「一切の角度を包含し、統一する根本的なメルクマールは集団性である。民謡の一切はそこから出発し、そこに帰る。」と述べていた。(『文学』昭和30.12)それが海辺の寒村の一台地であろうが、都会近くのお寺の境内であろうが、人々が歌い踊るなら、同じ地平で捉えるべきだろう。「性の解放」と「明朝の不安」とを抱えて人は生きているのであり、それを共有・共感してこその「盆踊り」なのだから。
ただ、「音頭取り」に、わたしは注目したい。かつてわたしは「音頭与三郎序論」という小論を書いた(『「うた」と風土』所収、1982年)が、「河内音頭」で言えば、歌亀・岩井梅吉・初音家大三郎・鉄砲光三郎・河内屋菊水丸ら、独自の節と文句で一世を風靡した人たちだ。「音頭与三郎」というのは、岐阜・中津川のフォークシンガー笠木透が採集して歌った民謡で、「おどりゃ染めたが、音頭は来ぬか。音頭与三郎、まだ来ぬか」という音頭取り待望の歌の文句に登場する。かれがいないと、踊りはしまらないし、精彩に欠けるというのだ。その音頭とりたちの“つぶし合い”のさまを朝倉喬司が記録している。(前引書)八尾の西郡の櫓で、1970年初頭に実際にあった、日之出家小源丸と三音会一派との歌喧嘩である。「一時間ずつ、掛け合いでやって、きっちり相手はつぶれてしまい寄りました」とのこと。「輪をなす踊りの盛り上がりと、歌への誘引力、人々の熱狂の度合い」で、優劣ははっきりし、つぎの年から、西郡の櫓は日乃出会のものになったと言う。だれが判定するのでもなく、民衆の持っている「もう一つの基準」が働くのである。やはり「河内音頭」は、音頭とりたちの意気込み次第であるのだ。現地に取材して、歌い手が変われば、こうも違うものか、という体験を何度もした。反対に有名人の、もう玄人の音頭取りでも、レコードを何枚も出していても、その日そのときの都合で、全く精彩を欠く倍もある。わたしは、「河内音頭」の一夜限りの盛り上がりに魅力を感じる。これは、「盆踊り」すべてに言えることではあるし、民謡というものの共通する要素だと思っている。
その音頭取りの一人に伺っていると、「なにがいいって、音頭取りながら、女の子を引っ掛けることです。」と笑って話したことが印象に残っている。特にウインクをするとか、そういう文句を歌い掛けるのではないのに、歌と声で秋波を送ると、踊りの後、櫓の元にその女性が待っているとのこと。これを聞いて、「河内音頭」もまた、古代からの「歌垣」の伝統の中にあり、東北の「なにゃとやれ」の習俗を受け継いでいると確信した。
コロナ禍でどうなるものかと思ったが、どうやら「河内音頭」は健在で、ますます多様性と芸能化が進捗している。「令和に入っても、吹奏楽アレンジによる演奏を行ったり、アメリカ発祥のゴスペルと掛け合わせて八尾の音楽シーンに新たな風を吹き込んだりなど、時代と共に八尾の河内音頭は進化を続けています。」と八尾市のパンフレットにもある。「哀調」や「郷愁」から、遠のいているが、それでも、どこかアナーキーで、ロンリーな趣は生きているとわたしは思う。「あぶない故に健全なり」と、ある人は言う。わたしは、今年の夏、有名でない櫓の一つ、大阪・生野区の桃谷2丁目の弥栄神社の江州系の音頭を訪ねてみたいと思う。踊り手の囃子が重要な位置を示しているという。音頭取りひとりで成立するものではないことも確かめておきたいから。
♪ソーラ ヨオイトコサッサノ ヨイヤーサッサー
遠音さすのは、この囃子言葉の方かもしれない。
※河内音頭
大阪府下に流布した盆踊り。現代でも、八尾市中心に盛行されている。江戸後期から、滋賀県の「江州音頭」という祭文が、放浪芸人によって伝播され、交野や松原、富田林の河内地方に根付く。音頭をとる、「読む」というように、講談よろしく、長い物語を7777,7575の音数律に載せて歌い上げ、櫓を取り囲む人々が手踊りをしながら、掛け声を掛け、一体感を盛り上げる。リズム感の良い時事ネタが特に好まれる。戦後は、伴奏にエレキギターが加わり、より扇情的に演唱される。なお、八尾に「河内音頭記念館」あり。