2026 FIFA World Cup : Nations Do Not Disappear — They Are Performed in Motion
English text appears at the bottom of this text.

なぜ人々は90分だけ「国民」になるのか
ナショナリズムの激増ではなく、ワールドカップが作る「ゆるやかな一体感」
国家や国旗に熱狂する各国民は本当に愛国心を強めたのか

在米ジャーナリスト 髙濱  賛  (Tato Takahama)
Pacific Research Institute
2026年6月24日

2026年ワールドカップを観戦していると、そこに現れているのは単なるスポーツ国際大会ではなく、国家という概念そのものの変容であることに気づかされる。

国旗が掲げられ、国歌が流れ、観客は依然として「国家対国家」という構図を前提に熱狂する。しかしピッチ上のアスリートたちは、その前提を静かにずらしている。

そこにいるのは、移民として育った選手、複数の文化圏を横断して形成された選手、そしてクラブ経済圏を移動するグローバルな職業人としてのアスリートである。

現代社会学の代表的学者、ロジャー・ブリュベイカー氏(UCLA=カリフォルニア大学ロサンゼルス校教授)は、著書 Citizenship and Nationhood in France and Germany(1992)、Ethnicity without Groups(2004)などで、民族を固定的な集団としてではなく、政治的・社会的に構築されるカテゴリーとして分析すべきだと論じてきた。

ベネディクト・アンダーソン氏(コーネル大学名誉教授)は、名著 Imagined Communities(想像の共同体)(1983)で、国家とは自然に存在するものではなく、人々が共有する想像によって成立する共同体であると論じた。

確かにブリュベイカー氏が指摘するように、現代のナショナリズムは血統的共同体から、制度的・実践的帰属へと重心を移している。

ワールドカップは、その移行がもっとも視覚的に現れる場となっている。代表チームはもはや単一の民族的縮図ではなく、国家という枠組みの内部に流入したグローバルな人口移動の断片的集合として成立している。

この変化は欧州、日本、アメリカで異なる形をとる。欧州では移民社会の歴史的帰結として多民族化が進み、アメリカでは「選択された帰属」としての市民概念が代表チームに反映される。

一方、日本は依然として国内育成と文化的連続性を基盤とする構造を比較的強く維持している。しかし代表チームの姿を見ると、現代日本社会にも多様な背景を持つ選手が加わり、国家像そのものが変化していることが分かる。

言ってみれば、三者は同じ競技形式の中で異なる国家モデルを並置する結果を生み出している。

ここで重要なのは、いずれのモデルも優劣ではなく、国家と身体の関係性の違いであるという点である。

国家とは固定された実体ではなく、人々の移動、選択、記憶によって絶えず再構成される存在なのだ。

文化社会学的に見れば、ワールドカップとは国家の実体を競う場ではなく、国家という集合的想像力を儀礼として再生産する場である。

アンダーソン氏が述べた「想像の共同体」という概念は、この場においてもっとも身体的な形で可視化される。国歌斉唱の瞬間、人々は見知らぬ他者と同時に声を発し、国家という抽象が一時的に感情として同期されている。

サッカー観戦を通じて筆者が接したアメリカのスポーツ・ジャーナリストはこう述べる。

「ピッチ上の選手は国籍という単一の属性ではなく、育成環境、移動履歴、家族的背景といった複数の層の交差点として存在している。ここにあるのは国家の崩壊ではなく、国家の重層化だ」

この指摘は極めて重要だ。確かに国家は消滅しているのではない。むしろ、より複雑な形で再編されている。

かつて政治思想家フランシス・フクヤマ(スタンフォード大学フリーマン・スポグリ国際研究所Senior Fellow)は、政治秩序の安定性は制度そのものよりも社会的な統合能力に依存すると論じた。

ワールドカップはまさにその統合能力が「儀礼」として試される空間ではないだろうか。

国家は依然として制度として存在するが、その内部はグローバルな流動性によって再編され続けている。

日本についていえば、かつて国旗や国歌は政治的な文脈と結びつき、激しい論争を呼んできた。しかし現在では、スポーツの場面において国旗や国歌はより自然な形で受け入れられている。それは政治的な主張というよりも、短時間だけ立ち上がる「ゆるやかな一体感」の象徴になっている。その背景には、日常生活の分散化と、スポーツが持つ短期的な統合装置としての機能がある。

スタジアムやパブリックビューイングにおける振る舞いは、ナショナリズムの復活というよりも、分断された日常の中で一時的に立ち上がる共同性の表現である。同時に、その行動(応援マナーや清掃など)が国際的に評価され、それが再び国内で共有されるという循環も見られる。日常的行動が「国家の物語」として再解釈される過程である。

アメリカ社会においても同様だ。国内政治では分断が深まる一方で、国際大会では強い統合的感情が立ち上がる。

これは矛盾ではない。むしろ、感情的な共同体が発生する場が政治からスポーツへと移動しているのだ。

結局のところ、ワールドカップのような場面で見える国旗や国歌への反応は、「国家への忠誠の強化」というよりも、分断された日常の外側に立ち上がる、意識的ではない一体感である。

在米生活が長くなった筆者のようなエトランゼにとって、それはむしろ身体感覚として理解できる現象である。

ワールドカップとは、国家の終焉を告げる場ではない。

むしろそれは、国家がもはや単一の形では存在しない時代において、それでもなお国家を演じ続けるための最大の『儀礼空間』なのである。

“Nations do not disappear—they are performed in motion.”

(国家は消えてなくなるのではない。人々の行為の中で、動きながら生成され続けている。)

これはアンダーソン氏やブリュベイカー氏の議論に近い考え方を、筆者なりに要約した表現である。

今回のワールドカップは、そのことを改めて可視化したように筆者には思える。

参考文献

Benedict Anderson, Imagined Communities: Reflections on the Origin and Spread of Nationalism, Verso, June 1983.

Rogers Brubaker, Citizenship and Nationhood in France and Germany, Harvard University Press, June 1992.

Rogers Brubaker, Ethnicity without Groups, Harvard University Press, June 2004.

Francis Fukuyama, interview and writings, Freeman Spogli Institute for International Studies, Stanford University, Stanford University, June 2026.


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本稿は、髙濱賛による連載「A Japanese View from America」の一篇です。Cultural Newsは、日系社会と米国社会を結ぶ架け橋として、報道、論評、文化活動を続けています。こうした活動を継続するためには、読者の皆様のご支援が欠かせません。本記事に共感いただけましたら、Cultural Newsへのご寄付をご検討いただければ幸いです。皆様からのご支援は、取材活動、記事制作、地域社会への情報発信を支える重要な基盤となります。今後ともご愛読とご支援を賜りますよう、心よりお願い申し上げます。

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English Abstract

The 2026 World Cup does not simply reflect a resurgence of nationalism. Rather, it reveals a more fluid and temporary form of collective identity—what might be described as a fleeting sense of nationhood.

While flags are raised and national anthems are sung, players embody increasingly hybrid identities shaped by migration, global mobility, and transnational careers.

Drawing on Benedict Anderson’s concept of “imagined communities” and Rogers Brubaker’s view of ethnicity as socially constructed categories, the article argues that nations are not fixed entities but continuously performed practices.

The World Cup thus functions less as a competition between nations than as a ritual space in which national imagination is temporarily synchronized. It produces not intensified nationalism, but a short-lived emotional community.

In this sense, nations do not disappear. They are performed in motion.

Note: English translation is prepared by the author. Translation assistance tools may be used.