石井志をんの短歌研究、家族の歌: 大竹幾久子 「いまなお原爆と向き合って」(その二)

大竹幾久子(おおたけ・きくこ)
「被爆後に小二で我は主婦になり 作りし夕餉は毎日目玉焼き」
『いまなお原爆と向き合って』より

広島出身の大竹幾久子の著書『いまなお原爆と向き合って』(本の泉社、2015年発行)には母・古田雅子の述懐、幾久子本人の記憶を詠んだ短歌、叙事詩、エッセイ、更にそれの英語版が含まれている。

原爆の為突然未亡人になった母・雅子は、八歳(勝一)、五歳(幾久子)、三歳(紘二)の子供を一人で育てなければならない事態に直面した。服作りの得意だった雅子は洋裁学校に二年通ってその学校の先生になる、しかし当時、その洋裁学校は、健康保険を持っていなかった。被爆後、病気がちな三人の子供を抱えて健康保険が無ければ暮らしてはいけない。

意を決した雅子は夫の元の職場・野村証券に頼み込んで嘱託としての職を得た。

原爆の翌年、幾久子は佐伯郡五日市町(現在、広島市佐伯区)の五日市小学校に入学。小学校まで四十分以上歩かねばならなかった。頭の怪我と原爆症と栄養失調で弱り切っていた幾久子にこの通学は辛いものであった。その上学校は三十段も有る階段の上にあった。暫くの間、学校についても、すぐにこの階段を登りきることができず、なかなか校門にたどり着けなかった。

この小学校区には原爆で両親を亡くし、孤児となった子供たちが各クラスに二、三人は居た。父はいないけれど母のいる私は何と幸せなのだろうと幾久子は思った。

証券会社で働く母が、勤めから帰るのは普段でも夜の七時、八時を過ぎていたが、大相場が立った日などはさらに遅くなった。空腹を抱えた子供たちは母の帰りを待ちきれなかった。幾久子は小学校二年生から、夕食を作る“主婦”になった。当時は、すべてが手作業だった。先ず、マッチを擦って火を起こし、薪を燃す事から始めた。お茶を沸かし、目玉焼きを作り、キャベツの千切りを添える夕食の用意に一時間かかった。

母・雅子は、昼は野村証券で働き、夜は洋裁学校で教え、週末には仕立物をし、子供たちの学費を作った。お嬢さん育ちだった雅子は、職業を持つという意識なく育ち、結婚した。原爆未亡人となったとき、初めて職業の大切さを知り、娘にも教育を与えることが大事と考えた。

広島市郊外の五日市町から、市内電車を乗り継いで約1時間の通学にもかかわらず、幾久子は、広島市内にある、ノートルダム清心女子中学、広島県立国泰寺高校に通った。女学校を卒業していた母・雅子は、女子が行くべき大学は、東京のお茶の水か津田塾と幾久子に言っていた。その母の言葉にしたがい、幾久子は、津田塾大学へ進んだ。

(敬称略)

歌人 石井志をん 千葉県出身、カリフォルニア州、サンタクルーズ・カウンティー フェルトン市在住 (カリフォルニア短歌会会員、新移植林会員)

二〇二一年四月記

(注、カリフォルニア短歌会はロサンゼルス在住の松江久志主宰、新移植林はロサンゼルス在住の中條喜美子主宰、どちらにもに北米と日本の歌人が在籍する)

関連リンク:読書感想 『いまなお原爆と向き合って』
https://digest.culturalnews.com/?p=16561