アメリカ連邦議会の重鎮、ダニエル・イノウエ上院議員が死去
ニューヨーク・タイムズは12月17日、電子版に「ダニエル・イノウエ、上院を支えたハワイ出身の良心、88歳で死す」と題する記事を掲載しました。記事の要約は以下のとおりです。
ハワイ選出のダニエル・K・イノウエ上院議員は、1959年にハワイがアメリカ合衆国の州として昇格して以来50年以上にわたってハワイ州を代表する議員を務め、アメリカを揺るがしたウォーター・ゲイト事件やイラン-コントラ事件では、アメリカを代表する良心としての役割を果たしていたが、12月17日、メリーランド州ベセダで、亡くなった。88歳だった。
イノウエ氏が全米に知られるようになり、有能な政治家としての認知を得たのは、1973年の上院ウォーターゲイト調査委員会のメンバーのときであり、尋問にさいして、忍耐強い姿勢を貫き通したことだった。
イノウエ議員事務所の発表によれば、イノウエ氏はウォルター・リード国立軍メディカル・センターで呼吸器の疾患のため死亡した。最後のことばは「アロハ」だった。
第二次世界大戦の英雄だったイノウエ氏は、ヨーロッパの戦闘で右腕を失くしている。ハワイ州で、民主党議員として2期、連邦下院議員を務めた後、1962年からハワイ州選出の連邦上院議員を務めてきた。イノウエ氏は、連邦の上院、下院いずれでも、初めて議員になった日系アメリカ人である。
2010年6月に、ウエスト・バージニア州選出のロバート・バード上院議員が92歳で亡くなったとき、イノウエ氏は、バード氏が務めていた上院議長代行の職を引き継いだ。規定では、アメリカの大統領が、その職を務めることができなくなったときは、大統領権限は、副大統領(上院議長も兼務)に引き継がれるが、副大統領が「大統領」を務めることができないときは、その次は連邦下院議に、そして連邦下院議長が「大統領」を務めることができないときは、上院議長代行が「大統領」を務めるになっている。つまり、イノウエ氏は、大統領権限継承者第3位というアメリカ連邦政府の重要職を務めていた。
2010年の選挙では、イノウエ氏は連続9期目の連邦上院議員に当選した。(連邦上院議員の任期は6年間)
イノウエ氏の振る舞いは、礼儀正しく、穏やかな語り口で、大声で、情熱的に演説する多くの上院議員たちとは、大きく違っていた。イノウエ氏は、目立たない方法で、ハワイ州に利益をもたらしていた。イノウエ氏のおかげで、数十億ドルの予算が、ハワイでの経済振興、雇用創出、自然保護のために配分された。
国家的危機が起こったとき、イノウエ氏は重要な役割を果たしてきた。1973年にウォーターゲート事件が発覚した。この事件は、1972年の大統領選挙の際、ニクソン大統領が再選を目指して違法な行為をしていたことが発覚したものだった。イノウエ氏は、上院ウォーターゲート事件調査委員会のメンバーとしてミッチェル司法長官や、3人の大統領補佐官たちを尋問した。
上院ウォーターゲート調査委員会は、1974年に行われ、その尋問は全米にテレビ中継されたが、イノウエ氏の忍耐強い尋問の進め方は、ギャラップ世論調査で84%という高支持率を得た。その後、ウォーターゲイト事件は、下院で大統領弾劾が決議され、上院で大統領の有罪が議決、その結果、ニクソン大統領は辞任に追い込まれ、大統領補佐官たちは禁固刑に処せられた。
1976年に、CIAやFBI、その他の情報機関が違法行為をしていた事実が発覚すると、イノウエ氏は、上院情報委員会の委員長に抜擢され、イノウエ氏が主導した上院情報委員会は、情報収集活動についての新ガイドラインを作り上げた。このガイドラインは、カーター大統領も高く評価した。
1987年にイラン・コントラ事件が発覚すると、イノウエ氏は、上院の調査委員会の委員長に任命された。この事件は、イランとの貿易を禁止するレーガン政権の方針に違反して、政府高官がイランに武器を売り、その売却利益をニカラグアの左翼政権の反対勢力に資金援助していた。
上院・下院合同調査委員会のヒヤリングは、全米にテレビ中継された。このとき、オリバー・ノース中佐やジョン・ポインデクスター司令官は、自らの行為を正当化する証言をしたが、それに、たいしてイノウエ氏は、毅然としてノース中佐らの行為が違法であり、民主主義に相容れないものであることを厳しく指摘した。