東 繁春 (カルチュラル・ニュース編集長)
2013年4月10日から14日まで、宮城県、気仙沼ホテル観洋に宿泊して、三陸地方の津波被害の復興のようすを見てきました。現地に行って話しを聞きますと、メディアでは、伝えられていないことが、たくさんあり、復興については、多くの問題があることが、わかりました。
わたし個人でいえば、4度目の三陸訪問でしたが、昨年からはじめた、三陸体験ツアーでは2度目のツアーになります。今回は、ロサンゼルスから日系人の家族3人、そして日本人1人、静岡県から1人、横浜から1人、東京から1人、そしてわたしを入れて、計8人のツアーとなりました。
石巻にある南三陸観光バス会社のマイクロバスを3日間チャーターして、南は気仙沼市本吉地区、南三陸町、女川町、石巻市を見て回り、北は、陸前高田市 大船渡市まで行きました。大船渡市三陸町の綾里(りょうり)にある漁業組合で参加者全員がはじめて、ワカメのボイル作業を見ました。
東北の被災地では、訪問者を歓迎しています。このメールを読まれた方が、ひとりでも、被災地を訪問するきっかけになればと思い、今回の東北ツアーのようすをお知らせします。
4月10日、東京から、気仙沼へは新幹線+ローカル線で、約5時間で行けます。新幹線は、仙台から3つ目の駅、一ノ関で降りて、大船渡線に乗ります。大船渡線の気仙沼駅は、町の中心部にあり、津波の被害を受けませんでした。
今回、直前になって、わかり、パニックにならずに済んだことは、新幹線「はやて」は全席予約席になっていることでした。それを知らず、「はやて29 号」の自由席に乗って行こうと予定を立てていたのですが、前日に横浜から参加のIさんが、全席予約席のことを東に知らせ、東京発を自由席のある「やまびこ 55号」に切り替えて、参加者全員が同じ車両に乗って、東北ツアーをはじめることができました。
訪問先を箇条書きにします。
4月10日、気仙沼市本吉町の「あそびーばー」。被災地の子供たちに遊び場を提供することを目的にした活動。東京からから来た神林俊一さんが「常駐プレーリーダー」で地域の子供たちの面倒を見ていました。地域のまとめ役、鈴木夫妻の協力で、地元のひとから、土地を無償提供してもらっています。
4月11日、陸前高田市の知的障がい者の作業所「あすなろホーム」を午前中に訪問、障がいの程度に合わせた、いくつかの作業を見せてもらいました。その後、陸前高田市立第一中学で、校長の佐々木保伸先生から、第一中学が避難所になっていく経緯や、避難所を運営するためのルールが作られていく話を聞きました。
昼食は、気仙大工左官伝承館の食堂で取り、午後からは、気仙小学校の元校長で、現在は、陸前高田市立図書館の館長をしている管野祥一郎先生の話を聞きました。管野先生から、子供たちが被災体験を表現する機会を学校は与えてこなかったという話を聞きました。管野先生の話を聞いて「あそびーばー」の神林さんの活動も、子供たちに表現の場を与えることだと、あらためて思いました。
11日の午後は、陸前高田から再び、気仙沼市に戻りました。その途中、「あすなろホーム」理事長の高井文子さんからは、30年間にわたる、陸前高田市での障がい者の救済の経緯を詳しく、聞くことができました。
午後の気仙沼市の訪問先は、波路上(はじかみ)地区の臨済宗地福寺(じふくじ)で、お寺の役員の近藤さんから、地福寺の被災のようす、復興計画は、コンクリートの巨大な防潮堤の建設の話ばかりが進んでいて、被災者の希望が行政に届いていないことなどを聞きました。地福寺では、檀家150人が死亡、本堂には、その死亡者の写真がたくさん、並べてありました。
12日は、片道3時間かけて、気仙沼市から女川町まで行きました。途中、南三陸町の歌津地区の仮設住宅と志津川地区の鉄筋だけが残っている防災庁舎を見ました。防災庁舎には、貸し切りバスが来て、巡礼の場となっていました。
女川町では、女川町病院が建つ高台、高さ約20メートルから、女川の町があった場所をみました。津波は、この高台にまで達し、さらに、病棟の1階まで、浸水しました。
わたしたちが、高台から降りようとしたところの階段で、地元に住む阿部さんという69歳の方に出会い、安部さんの体験談を聞くことができました。阿部さんの自宅は、津波から生き残ることができました、ところが、復興計画の都市作りで、立ち退き対象になっている、というのです。そうした、津波から生き残ったにもかかわらず立ち退きの対象になっている住宅が100軒あるというのです。
昼食は、ロサンゼルスから参加のTさんの希望で、地元の「岡清」という鮮魚店兼食堂で、海鮮どんぶりを食べました。
午後は、廃校になった女川第一小学校の校舎を使って放課後に子供たちに勉強を教えている「女川向学館」の内容を聞きました。中学生、高校生が来るのは、午後3時過ぎからになってのことなので、生徒のようすを見ることはできませんでしたが、仮設住宅での子供たちのようすなど、「女川向学館」スタッフから聞くことができました。この放課後プログラムは、東京にあるNPO「かたりば」によるもので、大手企業の資金提供を得て、スタッフの給料を確保していました。
女川からの帰りは、石巻市内を通ることになるので、津波に呑まれ、しかも火災の被害も受けている門脇小学校の校舎を見ていきました。門脇小学校の敷地の両側は、以前から墓場になっていて、見た目に、より悲しい印象を与えます。
気仙沼ホテル観洋に帰る途中、夕食は、南三陸町志津川地区の「さんさカフェ」で取りました。志津川高校の避難所でボランティア活動をしていたひとたち7人によって運営されている小さな食堂です。メンバーのひとり鈴木ジュンさんが、食事のあと、話に参加してくれました。昨年、来たときにも、ジュンさんは同じことを言っていました。「まず、親戚のように付き合ってください。援助をするのは、お互いがよく知り合ってから」。食料や衣服が足りないという時期はすでに終わっているのです。被災地が必要としている支援は、被災者によってさまざまになっているのです。
13日は、わかめの加工・販売の(株)マルオの尾坪正章さんの案内で、大船渡市三陸町綾里(りょうり)の漁業組合を訪ね、わかめのボイル作業を見たり、組合長の話を聞きました。綾里は、全500戸のうち、半数は漁業組合員で、地域のまとまりがよく、復興計画も、住民の合意を得て、進んでいるようでした。
その後、大船渡の中心地に戻り、大船渡商工会議所で、復興計画を進めるにあたって、被災者の住宅確保と、雇用を作り出すための企業への援助の、兼ね合いが難しかったという、話を聞きました。
仮設商店街「大船渡屋台村」で、昼食を取って、午後3時に、大船渡市大船渡町にある鵜浦真紗子(うのうら・まさこ)さんのお父さん、士朗さん(90 歳)の家へ。ロサンゼルス在住の鵜浦真紗子さんは、2011年3月は、帰郷していて、3月11日は、気仙沼にいました。津波に呑まれながらも、九死に一生を得て、助かりました。士朗さんの津波が押し寄せたときの目撃談と、陸前高田で被災した士朗さんの弟さんの話を聞きました。
普段は、親戚同士では、被災体験を話さない士朗さんの弟さんは、話を聞きにきたわたしたちのために、体験を話してくれました。
鵜浦家を終えて、気仙沼に帰ろうとしていたとき、真紗子さんが、「かもめの卵」で有名なさいとう製菓の社長、齊藤賢治さんと連絡が取れたと、わたしたちに知らせてくれました。大船渡市赤崎にある、さいとう製菓の工場に行き、齊藤さんが始めた「大船渡・津波伝承館」で、齊藤さんの撮影した映像と被災体験を聞くことができました。
4月14日は、午前中は、自由時間で、午前10時に、気仙沼ホテル観洋を出発、大船渡線で一ノ関に出て、新幹線で仙台へ。仙台で、今回の体験ツアーは解散しました。
東北ツアー番外編
14日以降は、わたしひとり、あるいは、ツアーの参加者数名で次の場所に行きました。
4月14日、仙台市立博物館、震災復興援助企画「若冲が来てくれました」江戸日本画展。午後3時30分には、偶然にも、この企画の発案者であるロサンゼルス在住のプライス夫妻がサイン会のために現れ、会うことができました。
4月14日、夜、あしなが育英会・東北事務所を訪問。東北レインボー・ハウスの事業計画を聞きました。
4月15日、福島市で、福島大学うつくしま・ふくしま未来支援センターを立ち上げられ、この3月末まで、センター長をしていた山川充夫教授に会いました。
正午前には、JICA(国際協力機構)から未来センターに出向している三村悟さんの案内で、福島市内で活動している非営利団体の見学、避難者が運営している食堂で昼食を取りました。
夕方には、福島大学キャンパスに行き、未来支援センターの見学、英文学の教授、Iさんから話を聞きました。I教授は、2011年4月に、わたしが、初めて福島市内でコンタクトした方です。
4月16日午前中は、福島市内に住むFさん宅を訪問、「市民放射能測定所」の活動などを聞きました。その後、高速バスで福島市からいわき市へ。いわき市では、大熊町自閉症児親の会「スマイル」の代表、栃本正さんに会い、大熊町での原発避難の話と、被災地の民話や被災体験談を紙芝居にして、被災者が集まる場を作っていることを聞きました。
いわき市での宿泊は、いわきワシントンホテルで、宿泊マネジャーのHさんから、いわき市内の観光名所について、教えていただきました。そしてその夜は、タクシーを飛ばして「スパ・リゾート・ハワイアンズ」へ。有名な「フラガール」を見てきました。
4月17日は、特急「スーパーひたち」で、いわき市から東京・上野へ。上野公園内の西洋美術館ロビーで、朝日新聞記者から、7月に法律が通るインターネットによる選挙運動についての意見を聞かれました。(これは、わたしが、ロサンゼルスで、海外有権者ネットワークに参加しているため)
そして午後の便で、羽田から岩国空港へ。ANA便は、ちょうど、わたしの故郷、呉市広地区の真上を通過して、松山方向の海に抜け、西側から米軍岩国基地の滑走路に着陸。機内から見ているだけでは、米軍基地内にいることがわかりませんでした。夜7時過ぎには、呉市の実家に到着、父母の歓待を受けました。
4月18日、午後3時に呉市長と30分の面談。(これは、わたしが、呉市長から呉シティー・アンバサダーに任命されているため) その後、呉市国際交流広場(市役所の一部)で、主任の方から話を聞きました。
夜は、広島市東区のふたば公民館会議室で、東北の被災者のための紙芝居を制作している「東北まち物語100本プロジェクト」のメンバーに会いました。大熊町の栃本さんの紙芝居は、広島で作られていたのでした。語りが担当のAさん(わたしの高校同級生)は、翌19日朝、6時発の新幹線で、広島から福島に向かいました。
そして、番外の番外は、広島県にある、神楽と湯治場の見学です。4月19日の夜は、広島県の北部、出雲文化圏に入る安芸高田市美土里町にある、神楽門前湯治村で、地元による神楽「大和武」を見ました。昨年、陸前高田市で湯治場を体験いて以来、湯治場と地方芸能が結びついた施設作りができないものだとろうか、と考えていたのですが、なんと、すでに、15年前に、広島県の山の中に実現していたのでした。