2017 半田俊夫の日米エッセー:日本紀行/日本人の桜と歌

Handa Sakura

東京都文京区の桜 (撮影=半田俊夫)

日本では桜開花の動きに合わせ桜狂想曲が進行中だ。3月下旬に先ず東京で満開となったようだが、桜の話題は桜前線が列島を南から北上を続け、終点の青森の弘前城や北海道に到達すると予想される5月初旬までは続きそうだ。日本には桜の追っかけなどという言葉もある。人々が各地で桜に酔い満開の桜に熱中する様を報道で見ていると共感と共に微笑ましく、且つ今年は自分がそこにいないことに一抹の淋しさと羨ましさを感じる。同時に日本人の桜への熱病的こだわりはつくづく独特だなと改めて思う。

古来、奈良時代までは日本人が愛でる対象は梅だった。梅は中国でも象徴的な花だが日本人も梅を愛した。梅は桜より先に寒い時期に色、香りよく咲きすぐには散らない。京の都から九州太宰府の職に左遷された菅原道真が京の家の梅を偲び詠った(東風(こち)吹かば匂い起こせよ梅の花主なしとて春な忘れそ)のように数々の名歌が残っている。

それが平安時代に桜になった。日本人の桜への独自の熱狂と愛着は数々の歌から見ても平安の時代に一挙に広く育って深化し日本人の情緒DNAにしっかり根を降ろしたと思われる。勿論その後も梅の歌も数々歌われるが、桜は深く日本人の美意識と死生観と一体の存在になったようだ。日本人は桜に生の喜びと共にその向こうに受け入れるべき死をも見たと思う。

桜にまつわる無数の歌の中から多くの日本人が愛する名歌を時代順に改めて味わってみたい。平安初期(世の中にたえて桜のなかりせば春の心はのどけからまし)、在原業平・古今和歌集。春に桜が無ければ自分の心は平穏なのに桜の美に心乱れいつ散るかいつ散るかと気が気でなく狂おしくなるのである。返歌に(散ればこそいとど桜はめでたけれ憂き世になにか久しかるべき)もある。桜は散るから良いのだ、この世に永久のものなどない、と詠うがお互いそれは“分っちゃいるけど止められない”のである。

平安から鎌倉時代の歌人、西行法師の(願はくは花の下にて春死なんその望月の如月の頃)、これは辞世の歌ではなかったが後に西行は本当に桜咲く2月16日の満月(望月)の日に死去した。花の下とはもちろん桜の下。如月2月だが旧暦だから現代歴では3月末から4月初旬になり正に桜が咲き満つる頃。当時は大和吉野山の山桜が見所だった。この頃はソメイヨシノはまだ無い。

西行に憧れた江戸前期の松尾芭蕉、吉野の桜を眺め、また故郷三重の伊賀上野の桜を見上げ(さまざまのことおもひ出す桜かな)、一見平淡な句に見えてよむ人は過ぎし己の人生に桜を重ね夫々無限に想いを馳せる時空世界が広がるのだ。さすが芭蕉。

江戸時代中期の国学者、本居宣長、(敷島の 大和心を人問わば 朝日に匂う山桜花)、漢学に相対する日本国学の想いと感性が胸一杯に溢れ出る歌だ。敷島、大和、朝日、桜とどれも日本を意味、又は象徴する言葉。因に余談だが敷島、大和、朝日、山桜はどれも明治時代の日本のタバコの名前になった。更に山桜以外はどれも日本帝国海軍の軍艦の名前になった。山桜は散るので縁起的に採用されなかったのだろう。

最後に江戸後期の(散る桜残る桜も散る桜)、僧で旅人、歌人だった良寛の辞世の句と言われる。人の命を詠ったのだろうか。桜の美しい光景の中に無常観が心に染み入る。含蓄が何とも味わい深い。桜は日本人には生命が昇華した美の形のようだ。

<半田俊夫> 2017年4月24日記

*半田俊夫=東京出身。パサデナ市在住。在米約40年。元航空業界商社経営。以下の諸ボランティア活動を行う:羅府新報の随筆「磁針」欄に毎月執筆。日刊サン・ポエムタウン欄の川柳選者。パサデナ・セミナー会主宰。命の電話友の会、茶道裏千家淡交会OC協会などで会長としてボランティア活動。他に南加日系商工会議所、南加県人会協議会、日米文化会館、小東京評議会、米国書道研究会などの理事でボランティア活動中。南加日商と日系パイオニアセンターの元会頭。