ロサンゼルスから、カルチュラル・ニュース編集長・東 繁春 (2012721日)

6月7日から11日まで、ロサンゼルスから5人、東京からの参加者4人、わたしを入れて10人で、ミニバスを貸しきって、4泊5日、津波で被災した三陸沿岸の町を見て回りました。

具体的な地名でいうと、仙台近郊の塩釜、松島、そして三陸沿岸の石巻、女川、雄勝、南三陸町、本吉、気仙沼、陸前高田、大船渡を、回りました。そして、グループが解散したあと、わたしひとりで、12日は陸前高田を再訪、13日は盛岡、14日には郡山市、福島市、そして東京と周り、14日の深夜便で、羽田空港を出発し、ロサンゼルスに戻りました。。

わたしの三陸体験は、昨年4月と今年3月、そして今回の6月と、3回になりました。この1年間の変化を自分の目で見ることができました。災害からの復旧は確実には進んでいました。気仙沼では、3月には、路上に横たわっていた船が、6月には撤去されていました。陸前高田では、ガレキは、整理されていました。ところどころに、ガレキを集めた小山が出現しています。石巻も、おなじような景色でした。

災害からの復旧は確実に進んでいるのですが、全体の被害があまりにも、大きいため、見た目には、ほとんど、何も変わっていないように、見えるのです。復興が進まないことへの行政への批判も聞かれますが、改善の余地はあるにしても、今回の大災害は、そう簡単に復旧できるものではないこと、をまず、頭に入れておかなければならないと思います。

東日本大震災は、阪神大震災と比べられることが多いのですが、これは、比べることが意味をなさないくらい、東日本のほうが、地域の広がりや程度がひどいという「基礎知識」を、多くのひとに持ってもらいたい、とわたしは考えています。

なぜ、そんなことが言えるのかと、いうと、わたしは、阪神大震災の3週間後に、神戸の中心地、三宮商店街から神戸市役所あたりまで、歩いて、被害のようすを、見ているからです。そのときの印象は、倒壊ビルのとなりに、まったく無傷のビルが建っていて、しっかりと作られたビルは、大地震でも耐えられるという、建築技術のレベルの高さでした。

しかし、東日本大震災では、わたしは、昨年4月16日に、陸前高田に入ったときは、ことばを失いました。目の前に広がる破壊された町並みは、これまで、経験したことのない光景でした。その光景を表現することばが、出てきませんでした。1万人近いひとが住んでいた町が、こつぜんと失われてしまう、この体験は、災害というよりも、わたしの母たちの世代が経験した空襲による町の喪失のほうが、体験として理解しやすいように、思います。

陸前高田の消えた町を見て、わたしは初めて、1945年8月6日の広島市の破壊のありさまを、リアリティを持って想像できるようになりました。

わたしは、かれこれ、もう、30年近く、メディアの仕事にたずさわっているのですが、経験を積むほど、確信を持つようになっていることは「メディアはすべてを伝えない」という事実です。

よく、「メディアは正しく伝えない」と言うひとがいますが、現代のメディアはウソを伝えることはできません。たくさんのテレビがあり、新聞があり、週刊誌があるのですから、1社がウソの情報を流しても、すぐに他の会社が、それを修正して行きます。

メディアはウソはつかない、と考えていいでしょう。しかし、メディアはすべてを、伝えていない、伝えることはできない、ということを、やはりこれも「基礎知識」として持っておいたほうが、いいのではないか、とわたしは考えています。

わたしは、このことをアメリカで説明するのに、グランド・キャニオンを例えに使います。グランド・キャニオンは壮大な景色です。写真や動画で、たくさん紹介されている光景です。しかし、実際にグランド・キャニオンの崖っぷちに立ったとき、それまで見た写真や動画では、説明することができない、壮大なふんいきの中にいる自分に気付きます。この例えは、アメリカ人には、たいへん、よく理解してもらうことができます。

日本だと、富士山の例えがわかりやすいでしょうか。わたしは、昨年9月に初めて、河口湖から富士山を見ました。そして、初めて富士山の雄大さ、霊験を感じました。わたしは、それまで、数限りなく、富士山の写真や動画を見てきました。新幹線や飛行機の窓からも、何回も富士山を見てきました。しかし、河口湖に立ってみた富士山というのは、わたしが、それまで、体験したことのない景色であり、体感でした。富士山を「霊峰」という意味が、そのときに理解できました。

東日本大震災は、1000年に一度の大津波が起こったと言われています。その事実からだけでも、ほんとうのことはメディアでは伝えることができない、と理解できると思います。メディアから来る情報は、受け手の体験の範囲内でしか理解することができません。そして、世界中で、1000年間も生きているひとは、だれひとりとして、いないのですから。

東日本大震災は、現地に行ってみなけば、本当のことは、理解できないのではないか。とにかく、現地を見てみようと考えたわたしは、昨年4月に、岩手県沿岸を3日間と、仙台市内、石巻市を歩きました。そして、このわたしの体験を、他のひとにも、伝えたいと考え、この6月のツアーを作りました。6月のツアーでは、ミニバスを借りて、ひとりでは、行くことができない女川町や南三陸町など、リアス式海岸の被災地を4泊5日かけて、見て周りました。

この6月の三陸ツアーで、よく、わかったことは、被災地のひとも、全国のひとにたいして被災地を見てほしい、と考えていることでした。

原発の再稼動問題や、九州地方での豪雨災害など、次々と大きなできごとが起こるなかで、東日本大震災が、全国版ニュースで取り上げられる回数が少なくなっています。ニュースに取り上げられることが少なくなると、問題がすでに解決してしまったかのような錯覚を多くのひとは受けます。

三陸の被災地に住むひとたちは、復興は何年もかかる大事業であり、現状は、被災直後からほとんど変わっていないことを、全国のひとに知ってもらいたのです。そのために、全国からの被災地への訪問を歓迎しています。

実際に現地に行ってみると、意外と簡単に現場に行くことができるので、驚きます。例えば、4000人近い死者・行方不明者を出した、東日本大震災の最大の被災地、石巻市へは、仙台からJR仙石線で行くことができます。途中で、JR線が切断されているため、代行バスに乗り換えますが、仙台から1時間半くらいで、石巻市の市街地に行くことができます。ですから、仙台からの日帰りは可能です。

また、2ヵ月くらい余裕をもっておけば、石巻市の中心街にある石巻グランドホテルの予約はできます。

JR石巻駅から、徒歩20分で、日和山まで上がることができます。標高56メートルの小さい山ですが、500年前に石巻城が建てられた場所だけあって、この山に登ると、石巻市内が見渡せます。日和山から海側の地区は、家屋がまったくない更地になっています。津波がそこに建っていた家屋をすべて呑みこんでしまったのです。

日和山の階段を海側に下りると、津波と同時に発生した火災で焼けた門脇小学校の校舎があるところに行き着きます。門脇小学校の生徒、約200人は、全員が日和山に駆け上がり、避難しました。

6月8日の午前11時ごろ、わたしたちが門脇小学校のあるところに行ったとき、ほかの団体バスも来ていました。

岩手県と宮城県の県境にある気仙沼も、アクセスしやすい町です。東京・池袋駅前から夜行バスが出ていて、夜11時半に、池袋を出発して、朝6時に JR気仙沼駅前に到着します。新幹線ですと、東北新幹線一ノ関駅から、JR大船渡線やローカルバスで、いずれも約1時間で、気仙沼に着きます。わたしたちは、6月9日に、気仙沼の仮設商店街「南町紫市場」を昼食をとるために訪れました。偶然、入った「あさひ鮨」では、京都から初めて、気仙沼に来たという 30代の女性と出会いました。ホテルの予約もなしに、気仙沼に来たと、言っていました。

気仙沼には、300人収容できる「ホテル観洋」というりっぱな宿泊施設もあります。一度、現地に行くと、被災地のことが身近に感じられるようになります。そして、被災地への支援ということも、まず、自分にできることから、やってみようと、具体的に考えられるようになるのだと思います。

(南三陸町にも、同じ会社が経営している「ホテル観洋」があります)

三陸沿岸は、歴史・文化のある地域で、古い日本の景色がまだ、たくさん残っています。三陸の被災地への訪問は、津波の被害を自分の目で見るということだけでなく、日本の歴史と文化を発見する旅にも、なります。

わたしは、今回の陸前高田の訪問で、生まれて初めて「湯治場」を体験しました。農作業や漁業の合間に、食材と寝具をもって、1週間、2週間と、簡素な宿泊所にこもり、温泉につかるところです。

あとで、わたしが知ったことは、温泉の多い日本では、九州にも「湯治場」があるのですが、温泉のでない瀬戸内海の町で育ったわたしにとっては、東北の「湯治場」に宿泊したことだけで、文化発見(カルチャーショック)でした。

(了)