南三陸町:さんさカフェ
東 繁春の三陸体験ツアー記から
町が壊滅した南三陸町は、2005年に、志津川町(人口1万人)と歌津町(5000人)が合併してできた町です。志津川地区のちょうど、真ん中に、町役場や防災対策庁舎がありました。3階建ての防災対策庁舎では、防災放送を担当の町役場職員の遠藤未希さん(24歳)が最後まで、放送を続けました。
南三陸町は、車がないと行けない場所です。石巻から、また気仙沼からバス路線もありますが、一日数便しかなく、バスでは日帰りができません。バスで行くときは、南三陸町のホテル観洋に1泊する日程を組むといいでしょう。
高台にある志津川高校が大きな避難所になりました。避難所が閉鎖になったあと、避難所で活動していたひとたちが集まって、2012年1月に、志津川廻館(まわりだて)に仮設を使って「さんさカフェ」という小さな店を開きました。500円で定食が食べられます。
わたしたちは、6月8日の午後、さんさカフェを訪れ、昼食を取りました。翌日の朝、7時に、さんさカフェのスタッフのひとり、鈴木淳さんに、わたしたちの泊まったホテル観洋まで、来てもらい、話を聞きました。
淳さんは、「博士」というあだなでも、呼ばれているひとで、そんな風格があるひとでした。年齢は40代か50代くらいに見えました。以前、仙台で、イラストレーターの仕事をしていました。3月11日は、一度、自分は死んだと思ったそうです。仮設住宅に入れてもらえず(本人のことば)、現在は、さんさカフェのすぐ側にトレーラーハウス(アメリカ製)を持って来て、両親と3人で生活しています。
淳さんの話で、納得したことは、支援者と援助を受け取るひとが、直接、連絡のあるところは、長続きしている、という話でした。被災地へ何か援助をしたいと思ったら、直接、来て、現地のひとと話しをしてほしい、ということでした。
また、マスコミにたいしても、きびいし意見を持っていました。つまり、マスコミは、取材をする前から、あらかじめモデル・ケースを作っていて、被災者から聞いた話を、あらかじめ作ったケースのどれかに、当てはめようとする。自分たちが想定していたケースに当てはまらない話は、ニュースとして取り上げてくれない、言っていました。
例えば、仮設住宅に入ったひとには、テレビや冷蔵庫など6点が赤十字から提供されたのですが、自分でアパートや住宅を見つけたひとには、赤十字は何も提供しなかった、のです。そうした問題点があることを、マスコミは、報じなかったと言っていました。
(自分でアパートや住宅を見つけたひとへの援助は、まったくボランティアによる「ふんばろう東日本プロジェクト」が、始まり、大きな成果をあげていると「ほぼ日刊イトイ新聞」が報じていました。)