カルチュラル・ニュース編集長、東 繁春
3月10日と11日、東日本大震災から4年目を迎えた岩手県宮古市を訪れました。宮古市は、三陸沿岸にある町で400年前に港が開かれた歴史のある町です。人口は約6万人ですが、広域合併で、市の面積は琵琶湖の2倍はあるという広い地域です。宮古市の中心部は、閉伊川(へいがわ)沿いにありますが、中心部から車で北へ約15分の田老地区(たろう・旧、田老村、2005年に宮古市に合併)は、1896年の明治三陸地震で約1900人、1933年の昭和三陸地震で約1000人が死亡・行方不明になっており、津波被害地区として有名な場所です。
2011年の東日本大震災では、宮古市全体では約500人の死者・行方不明者が出ています。このうち、田老地区での犠牲者は、約200人でした。
東日本大震災では、三陸沿岸約500キロに渡って巨大な津波が襲いました。この距離はロサンゼルスで言えば、北はサンタバーバラから南はサンディエゴに至る距離です。三陸沿岸には津波被害を受けた町が多くあるのですが、わたしが、昨年に続いて、東日本大震災の記念日に宮古市を選んだのは、外国から訪問する者にとってアクセスが良いこと、宿泊ホテルが確保しやすいこと、そして、地元の方と知り合うことができたからです。
東京から岩手県の中心地・盛岡へは新幹線で約2時間です。わたしは行きだけは、いつも盛岡で一泊します。盛岡から宮古へは、北上山地を国道106号線を岩手県北バスに乗り、約2時間の距離です。今回、行きの3月10日は、快晴で、定刻に宮古に着きました。しかし帰りの3月12日は、雪が降っていたので、盛岡への到着は約15分遅れました。
宮古の中心部での津波の被害は、浸水だったので、建物はそのまま残っており、水がひいた後は、被害があまり目立ちません。しかし気をつけて町を見ていると、鉄道の橋が、えぐり取られたままで、市街の中心部に残っています。
わたしが初めて、宮古市を訪れたのは2011年4月でした。岩手県盛岡市に住む方の車に乗せてもらって、1日で、盛岡から、久慈、宮古を回って盛岡に戻りました。宮古ではカレー店で昼食を取りました。翌2012年3月11日の東日本大震災の記念日に、地元では、どんなことが行われるのだろうと、ロサンゼルスでインターネット検索していて、見つけたのが宮古市主催の追悼式で、この式典のなかで、バッハの「G線上のアリア」やパッヘルベルの「カノン」を演奏する弦楽グループが宮古市にあることを発見したのです。
「宮古弦楽合奏団」の代表、梅村圭一さんにお会いしたのは、2013年11月のことでした。盛岡市に住む方の車で、広島県からの友人2人を連れて、三陸沿岸の被災地を回る3日間の旅程の中で、宮古の梅村さんを訪問しました。
梅村圭一さんのお父様、梅村功二さんは1950年ころから亡くなるまでの2000年までに、宮古市の市役所に勤務しながら1000人近い子供にバイオリンを教え、宮古市にクラシック音楽の種を蒔いた方でした。梅村圭一さんは、建築・防水会社を経営しながら、父が築いた「宮古ジュニア弦楽合奏団」をひきついできました。
2012年宮古市追悼式でクラシック音楽が演奏されたのは、宮古市から宮古弦楽合奏団へ依頼が来たこと、そして2013年の宮古市追悼式でも、宮古弦楽合奏団が演奏をしたという話を聞きました。2014年の追悼式でも、宮古弦楽合奏団が演奏する予定があるのか、と聞いたところ、梅村さんからは、それは市役所が決めることなので、分からないという返事でした。
わたしは、このとき、3月11日に梅村さんたちが自主的にクラシック音楽コンサートを開くことが、宮古市のためになると、自分の考えを言ったのですが、実は、わたしのこの言葉がきっかけになって、2014年と今回の2015年の3月11日追悼コンサートが開かれることになりました。
2014年3月は、ロサンゼルスからアメリカ人3人、日本人2人、東京から3人、そしてわたしを入れて計9人で、被災地見学ツアーをしました。このとき、3月11日は宮古市の宮古弦楽合奏団の追悼コンサートに参加したのですが、このコンサートの中で、「ロサンゼルスの東さんの提案がきっかけで、このコンサートが実現しました」という説明があり、わたし自身が一番、驚きました。
2014年3月11日のコンサートは、「第3回復興支援コンサート、共に生きる、3.11宮古市・東日本大震災、あの日を忘れない、ちいさなちいさなコンサート、世界に響け」という長いタイトルでした。宮古市内のショッピングセンターのコミュニティー・ルームを借りて、梅村さんグループ、梅村さんの次女がメンバーのアンサンブル、そして地元、宮古高校のコーラス部が演奏しました。わたしたちロサンゼルスと東京からの訪問者は最前席を与えていただきました。狭い会場でしたが、出演者を含めて約110人のひとでいっぱいになりました。
2015年3月11日のコンサートは、前年と同じタイトルで、元は農協が持っていたビルで、現在は陸中ビルと呼ばれているJR宮古駅に近い場所で行われました。今年は、前年の地元、宮古の音楽家に加えて、東京からの音楽家10人が参加しました。そして、岩手県文化振興事業としての認定を受けて、会場費の一部として補助金を受けることができました。また宮古市と宮古市教育委員会の共催事業にも認められました。今年は、大きな会場だったので、出演者を含めて約230人の参加者がありました。
コンサートの後、昨年と今回、続けて演奏に参加した宮古高校の2年生女子に感想を聞いてみました。震災が起こった日に、震災を記念するイベントに、参加できたことがうれしい、と語ってくれた高校生がいました。東日本大震災をが起こった3月11日には、市が主催する追悼式典は各地で開かれてます。しかし、3月11日に、一般のひとが主催し、一般のひとが出演・参加する記念行事・イベントは、ひじょうにめずらしことです。現在でも、仮設住宅で暮らす人がまだ残っている被災地ですが、被災地の生活は、非常時は脱し、ふつうの生活に戻っています。そのふつうの生活の中で、宮古の人たちは追悼コンサートを自主企画することで震災体験を語り継ぐ努力を続けています。
(カルチュラル・ニュース編集長、東 繁春)