石井志をんのショートショート
花野から(二)
研ぎ澄ます
石井志をん
紗枝は藤塚毅の二度目の妻である、最初の妻は彼が一方的に離縁したと言う事になっている。
小菊の切り花を入れた手桶を下げて紗枝が墓に向かうと墓石の周りを父が掃除していた。身をかがめて雑草を抜いている彼の傍に一人の男が居た。その男が立ち上がった時、藤塚毅であるとわかると紗枝の胸が騒いだ。
母は既に亡く、若くして他界した兄の命日に寡黙な父と二人だけなのは少し寂しいと思っていたから藤塚がこの日を忘れずに来てくれて目の前の景色が明るくなった。
亡き兄の親友藤塚毅とは兄の葬儀以来の再会である。彼は紗枝の初恋の人だが彼女の密かな片思いで、憧れの人は思春期の少女の思いには無頓着であった。藤塚が大学の同級生と結婚すると兄から聞いた時、その人のお嫁さんになりたかった紗枝の恋は終わった(筈であった)。
手桶を下げて歩いてきた紗枝は黒に近いダークグレーのスーツを着ていた、真っすぐな艶のある黒い髪が、遅い秋の日差しを受けて光り、さらさらとその首筋を覆っていた。毅の記憶に有る親友の妹は健康そうに日焼けしたあどけなさの残る少女であった。目の前の紗枝は花のようにたおやかな美しい女に変身していた。
「紗枝ちゃん、しばらく見ないうちにまた一段と美人になったね」
「いいえ、藤塚さんはお変りもなくて」少し太くなったかなと思いながらもそんな事を口にはしない。
「デブになったと思ってる」
「いいえ、御立派になられて前より素敵になったくらいです」心の中を見透かされていた。
事実三十歳を過ぎてから少し体格の良くなった男は以前より頼もしげに見えた。
懐石料理の店で健啖家の男は美味しそうに酒を口に運びながら気持ちの良い程次々に出される料理を平らげて行き、紗枝はそんな毅の姿に兄の面影を重ねて見ていた。ふと見ると、毅の左手の薬指には指輪が無かった。
その日以来毅は時々茂と紗枝親子の家に顔を見せるようになった。
「藤塚君は紗枝のことが好きみたいだね」父は何を期待しているのだろうか。
「しかし、なんだな、彼は前の細君と面倒な事が有ったらしい」
紗枝は知らぬふりをした。愛されている自覚が無いと言えば嘘になるが、「好きだ」とも「嫁に来てくれ」とも言われた訳ではない、別れた妻との間に何が有ったのかを詮索するなど余計なお世話と言うものであろう。
彼女は自分の立場を良く分かってるつもりだったから結婚に期待をしていなかった。紗枝は恋愛にも消極的で自分は多分一生一人で生きて行くのだと思っていた。
バツイチであると言うハンディが有るからか、いくら待っても毅から結婚話を持ち出す気配は無く時ばかりが過ぎて行った。
「紗枝さんと結婚させて欲しい」と毅が茂に伝えた時、この男はやっとその気になったのかと思った茂には娘の為に確かめておきたい事が有った。
「前の奥方と別れたのは彼女の病気が理由だと言う噂を耳にしましたが、それは事実ですか?」
悪夢かと思う場面が脳裏に浮かんだ。毅は妄想を振り切って声を絞り出すように言った。
「違います」
思いがけず見せた毅の暗い眼差しに驚いて茂はそれ以上追及するのを止めた。
「失礼が有ったら許して下さい。。紗枝がもし病気にでもなって君に捨てられたのではたまったものではない」とわざと明るく言った
「ところで君は紗枝が障害を持ってることを知っていて彼女と結婚すると言うのですか」
呼びかけた時の娘の反応が悪いと気が付いたのは、紗枝がまだかわいい盛りで歩き始めたばかりの頃であった。顔を見ながら呼べばすぐに反応するのだが、少し離れていたりすると大声で話さなければならなかった。検査の結果、最初に抱いていた危惧は確信となり茂は妻と二人絶望の淵に突き落とされていた。紗江には鼓膜が無かった。おそらく生涯結婚も出来ないであろう、それ以前に、この娘ははたして社会に適応出来るだろうか。
障害者の特殊教育を受けさせるべきだと勧める医者も居たのだが、考えた末に茂は彼女を健常者と共に学ばせると言う冒険に打って出ることにした。学齢に達した紗枝が他の子供達に交じって楽しそうに通学する様子を見て茂と妻は胸を撫で下ろした、二人の選択は間違っていなかったらしい。
紗枝が健常者に比べても遜色なく学業を続け、仕事を得る事が出来た。それはプライドが人一倍高い彼女の、屈辱に耐えながらも口には出せぬ程の努力が実った結果ではあるが、茂にはその幸運が奇跡としか思えなかった。
「紗枝の耳には鼓膜が無いのです」
毅は目から鱗が落ちる思いがした。
大きな目で自分を真っすぐに見つめる癖は一言も聞き漏らすまいと神経を研ぎ澄ましているからであったのか。肩で切りそろえた黒い髪は耳を隠しているが、時々覗かせる耳にイアリングを見た事がない。
初めて肩を抱いた日、唇を重ねようとして髪に触れた時紗枝はびくっとして抗った。俺は嫌われていたのかと、少なからず傷ついたが、紗枝は耳に触れられる事には必要以上に敏感であったのだ。補聴器を着けている耳はそっとしておいて欲しかったのだ。
結婚した後で「君のように綺麗に箸を使う人を初めて見た、まるで日本舞踊でも見るように美しいと思った」と言われた時紗枝は何故だか彼の昔の妻と比べられている気がした。
二人の暮らしが落ち着いて紗枝が幸せを噛みしめ始めた頃、無言電話がかかるようになった。それは必ず夫が不在の時で毎日のように執拗に続いた。
「誰なんですかあなたは」声を荒げて言った時思いがけず電話の相手が言った。
「祥子と言います。毅さんの妻だった事のある人間です」
驚いて息をのむ紗枝に電話の声は言った。
「貴方にお話しが有るの、彼に内緒で逢って下さらないかしら」
待っていたのは目の大きな痩せた女だった。眉を丹念に描き、赤い口紅を引いてまつげにはマスカラを着けていた。くぼんだ目と頬骨が高く目立ち、乾いて艶の無い肌にパウダーがなじまずに浮いていた。
「藤塚は決して他人を悪く言わないから貴方は何も聞いていないでしょうね」
目の前の女は紗枝の夫をフジツカと呼んだ、未だに彼女の内で毅は夫なのか。
祥子が言う通り、紗枝は何も聞いていないし、詮索もしない。過去に、何が有ろうと紗枝の知った事ではない、と言うよりは、知りたくもなかった。
「私が病気になって離縁されたと言われているらしいけれど、違うのよ、病気になったのは彼と別れた後の事なの」
一言言ったその後で祥子は逡巡していた。
「お話し難い事なら無理になさらないで」
「いいえ、話さなくてはなりません。私にはもう時間が無い。今私がお話ししなけれ真実は闇に葬られます」
祥子はジャケットを脱いでノースリーブの左腕を見せた。皮が骨に張り付いたような細い二の腕に傷跡が大きくはっきりと浮き上がって残っていた。
「これは藤塚に付けられた傷です」紗枝は自分の目と耳を疑った。
「嘘ではありません。これは私自身が招いてしまった咎の痕なのです。」
祥子は続けた。
「------------お義父様を愛してしまった、初めっから私はお義父様が好きだった。私の思いに気が付いたのか彼も何時か私を愛するようになった」
お義父様と言うのは舅で毅の養父である、三人は一つ家に住んでいた。
「二人の事を藤塚は知るはずも無かった。でも出張から予定より早く帰宅した時に抱き合っている二人を見てしまった。------------その時彼が傍に有ったか花瓶で殴りつけた時に出来た傷です」
話の途中から紗枝は無性に腹が立ってきた。
「よくもそんなおぞましいお話が出来たものね。何が愛したものですか、孤独な寡夫を垂らし込んでおいて、貴方は誰でもがご自分を好きになると思っている。別れた夫が今でも自分を忘れられずに居るとでも思っているのね」
それに、なんでこのタイミングでの告白なのだろう。今まで沈黙を守って来たのならその大事な秘密とやらをお墓の中でも天国へでも地獄へでも持って行けばいいではないか。
「------------話は未だ終わってない、大事なのはこれからよ」
どうでもいい事だと紗枝は腰を上げようとした。
「藤塚にはね、幸せになる資格なんて無いのよ」
「なんで?」
「あの夜義父は心臓の発作を起こしてしまった。苦しむ父を見ながら藤塚は救急車も呼ばずに飛び出して行った」
すぐに救急車が来ていたら助かったかも知れない命を彼は見捨てた。
「何故彼だけを責めるの?彼が殺したとでも言うの?だったらそこにいた貴方も同罪でしょう」
「私はそこには居なかった、出血がひどかったから救急の窓口に急いでいた。まさかそんな事になっているなんて知らなかった。帰ったら既にこと切れていた」
「いいですか、どちらかと言えば心臓麻痺を起こしたいのは藤塚の方だったでしょう。彼がそうならなかった事に、感謝するわ」
紗枝は席を立った。
街は暮れかけていた。
自分が墓場まで持って行く荷の重さに紗枝は足の運びも心もとなくてああ倒れそうだと思った。
(この短編は羅府新報懸賞文芸に入選した作品に加筆修正した物です)