半田 俊夫、東京にて
12月は日米開戦の日が来る。1941年(昭和16年)12月8日、日本軍がハワイ真珠湾攻撃と対米英宣戦布告により太平洋戦争の火蓋を切った。四年後の1945年8月15日、 ズタズタに破滅状態の日本国は無条件降伏により敗戦。僕は戦中生まれだが戦争も終戦直後の焼け跡や混乱の日々も記憶は無い。終戦4年後の春、満6歳での小学校入学の頃から微かな記憶が始まる。その頃は東京も至る所に米軍爆撃の跡や戦争の傷跡が残っていた。親の世代には復興が始まりつつも食糧の確保を始め生活のあらゆる面で苦労に満ちた日々だった筈だ。
戦争を振り返る書物が多数出版され戦中生まれの僕らはそれらを読みながら成長した。大戦で軍民合わせ日本人の死者数は約3百万人。僕らの成長期は国民の皆が戦争はもうコリゴリだ二度とご免だの心情で復興のため必死に生きて働く時代だった。終戦当時国民の平均寿命は約50年に過ぎなかった日本は戦後76年の現在の国民平均寿命が女性は世界一の約88歳、男性は世界2位の約82歳となった。
今、大戦に散華した軍人たちの遺書を書物で読んでいる。平穏な時代に生きる者として平和の大切さを痛感し二度と戦争は避けねばの思いで遺書の一つを紹介する。
戦艦大和に海軍第二艦隊司令長官として乗艦し昭和20年4月7日海上特攻隊として沖縄へ向かう途上米軍機の猛攻を受け沈没、戦死した伊藤整一海軍中将、享年55歳が妻ちとせへ向けた遺書。
『此期に臨み 顧みると吾等二人の過去は幸福に満てる者にて 亦私は武人として重大なる覚悟を為さんとするとき 親愛なる御前様に後事を託して何等の憂なきは 此の上もなき仕合せと衷心より感謝致居候
御前様は私の今の心境をよく御了解なるべく 私は最後迄喜んで居たと思われなば 御前様の余生の淋しさを幾分にてもやはらげる事と存じ候 心から御前様の幸福を祈りつつ 愛しき最愛のちとせどの』
愛する妻への思いを胸に、武人として出撃時に残した遺書。多くの軍人が愛する妻や家族への思いを抱きながら海に山に散って行った。これらの遺書を前にして目にする時、戦争に殉じた人々への痛切な思いと、改めて非戦の思いが心に深まる。
半田俊夫: 東京出身。在米約40年の後現在は東京在住。元航空業界商社経営。以下の諸ボランティア活動を行う:ロサンゼルスの日本語新聞・羅府新報(らふしんぽう)の随筆「磁針」欄に毎月執筆(2021年12月まで)、ロサンゼルスの日刊サン・ポエムタウン欄の川柳選者。
在米中はパサデナ・セミナー会主宰、命の電話友の会、茶道・裏千家・淡交会オレンジ・カウンティー協会などで会長としてボランティア活動。他に南カリフォルニア日系商工会議所、日米文化会館、リトル東京評議会、南カリフォルニア県人会協議会、米国書道研究所などの理事役でもボランティア活動をした。ロサンゼルスの日系パイオニア・センター、L.A.東京会、およびリトル東京ロータリー財団の会長を歴任。南カリフォルニア日商の元会頭。
(本稿はロサンゼルスの日本語新聞・羅府新報の「磁針」欄に2021年12月掲載された文に加筆したものです。)