2020 東京発エッセーby 半田俊夫:知覧 訪問記 2015

(東京発)by 半田俊夫

この春(2015年)に鹿児島を訪れた。大学生の夏に仲間とひと月かけて九州一周旅行をして以来だから50数年ぶりになる。

一日かけて一番の目的地、知覧の特攻平和会館まで行ってきた。大戦末期、ここから特攻作戦で多くの20歳前後の若者達が飛び立って往った。特攻作戦に散った若く純真な彼らが想いを込めて遺した手紙や写真や遺品に会い、彼らの霊に追悼と鎮魂の祈りを捧げねばと長年抱いていた思いがやっと叶った。

知覧・特攻平和会館

各種の展示を見て回る間、そうなると分っていたが、涙がずっと止まらず、重ねて持っていた花紙がぐしょぐしょになった。若かった彼ら一人一人の心情が胸に迫った。

戦局悪化の中、若者たちは最後は日本を守る為に命を捧げる決意をした。故郷の家族や国の将来を思いながら出撃して行ったことだろう。

写真で見る彼らの顔は屈託ない笑顔も真面目な顔も皆一様に目が澄んでいる。 出撃の2時間前に寄って来た子犬を一人が笑顔で抱きかかえ回りを仲間が囲んで笑っている写真がある。少年兵たちだ。何とも 純できれいな笑顔と笑顔。死しかない 特攻に飛び立つ ほんの2時間前の事なのに。日本人として心に深く沁み入った。戦争のもたらす悲しさが胸に広がった。

特攻の出撃は九州や沖縄、台湾などの各地から行われ、特攻戦死者は陸軍航空隊が約千四百人、海軍航空隊が約二千五百人、合計約三千九百人とされる。何とも多くの有為の若き人材を特攻作戦で失ったことか。若者たちは自分たちは死んでも、いずれ戦争が終れば残った日本人が日本を必ず立派に復興してくれと祈って散って行った。遺書で分る。彼らこそ生きていれば日本再建にどれほど貢献できる人材で
あったろうか。

知覧は旧陸軍航空隊の出撃地で、陸軍航空隊の特攻戦死者の約1/3の4百数十人がここから出撃している。少年飛行兵上がりで十代後半の少年も多数いた。出撃戦死者の名簿を見ると年齢層は17歳から23歳までが大半だ。

知覧を飛び立った特攻機は南へ針路をとる。鹿児島の最南端には薩摩富士が海から直接そそり立つように美しくそびえている。彼らは皆必ず空中からこれを目に焼き付けて飛んで行った。これが彼らにとり本土の見納めとなる。どんな気持ちで薩摩富士を背にして飛び去っただろうか。

知覧は今は桜並木と緑の広い公園の中に航空機の展示と共に記念館や展示館が広がり、旧滑走路は今は有名な知覧茶の茶畑になっている。その知覧茶を記念の土産に買った。

特攻平和会館は展示により当時の真情を伝えて、世界の恒久平和に寄与したいとする。見る我々は戦争のむごさ、空しさを学び、平和の大切さ、命の尊さを思うのである。

鹿児島市内の丘の上から錦江湾と桜島を望む

鹿児島市に戻り丘の上から望んだ錦江湾の桜島の景観は雄大だ。悠久の自然とはかない人の命の対比を感じさせる。眺めながら知覧の思いがずっと続いた。    <半田俊夫>

(本稿はロサンゼルスの日本語新聞・羅府新報の「磁針」欄に2015年7月に掲載した文に加筆したものです。)

半田俊夫: 東京出身。在米約40年の後現在は東京在住。元航空業界商社経営。以下の諸ボランティア活動を行う:羅府新報の随筆「磁針」欄に毎月執筆、日刊サン・ポエムタウン欄の川柳選者。在米中はパサデナ・セミナー会主宰、命の電話友の会、茶道裏千家淡交会OC協会などで会長としてボランティア活動。他に南加日系商工会議所、日米文化会館、小東京評議会、南加県人会協議会、米国書道研究所などの理事役でもボランティア活動をした。日系パイオニア・センター、L.A.東京会、および小東京ロータリー財団の会長を歴任。南加日商の元会頭。