
高瀬隼彦さんが、アメリカで最初に設計された鹿島ビルの完成写真 (Source: Little Tokyo Historical Society)
Memories of Mr. Hayahiko Takase
2019 年4月27日に、ロサンゼルス・リトル東京の合同教会で行われた「高瀬隼彦氏をしのぶ会」で読み上げられたメッセージを、以下に掲載します。
なお、以下のテキストは、読み上げ原稿に書き直したため、原文どうりでない箇所もあります。(カルチュラルニュース編集長、東 繁春)
高瀬隼彦さんに寄せられましたメッセージを、記念写真のスライドショーと伴に、紹介します。

ロサンゼルス・リトル東京の鹿島ビルの起工式(写真提供:鹿島昭一氏)
1960s
1960年代に高瀬さんといっしょに日本建築学会賞を受賞し、現在も鹿島建設の取締役・相談役をされている鹿島昭一(かじま・しょういち)様からのメッセージです。
高瀬隼彦君のご逝去を悼(いた)み謹(つつし)んでお別れのメッセージをお送り申し上げます。昨年12月27日に逝去された後、年明け1月に入り日本の地でその訃報に接しましたが、また仲間の一人がこの世を去ることになり、本当に残念でなりません。
思えば、高瀬君との出会いは、東京高等師範学校・付属小学校に入学した時です。附属小学校・中学校を経て、東京大学工学部・建築学科で同じクラスとなり、ハーバードでも同時期に建築を学びました。まさに若き意気 盛んな時代を共に過ごした仲でありました。
アメリカから先に帰国していた私に続き、彼は1960年に6年に亘るアメリカ留学と設計事務所・勤務に区切りをつけて帰国しました。
その際、挨拶に来た彼に「今、鹿島建設はロサンゼルス進出を考えており、リトル東京にビルを建設する計画なので、その設計をやらないか。」と誘ったのです。
とはいえ、様々な手続きにしばしの時間がかかるため、その間に私とともに、リッカーミシンの本社ビルの設計を担当してもらいました。
このプロジェクトは後に、日本建築学会賞を受賞することになります。その後1962年に、ロサンゼルスの日系商業会議所からの要請もあり、リトル東京のマスタープラン作りに高瀬君を始めとした社内チームで取り掛かかりました。

鹿島昭一氏の提供写真:中央に鹿島建設副社長の鹿島昭一氏と高瀬隼彦さん(当時・KII取締役)
当時竣工したばかりのホテル・オークラの部屋を 2か月ほど借り切って作業を進めたのは本当に良い思い出となっています。幸い、当社にて検討したプランがロサンゼルス市当局の好評を得て、その後の再開発に繋がりました。
高瀬君は、Kajima International Inc. の取締役としてアメリカに赴任、一貫してリトル東京の開発に関わり、カジマビルを始め多くの建物の設計に携(たずさ)わったのであります。
アメリカに赴任以降、会う機会は限られていましたが、出会いから80年を超える交流の中で、彼はまさにこの上なき良き友人でした。
アメリカで活躍されていた高瀬君の在りし日を偲(しの)び謹んで哀悼の意を表しお別れの言葉といたします。
(了)

(Source: Little Tokyo Historical Society)
ロサンゼルス市の再開発局で、都市計画の立案にたずさわったカワラタニ・ユキオ様からのメッセージです
Little Tokyo Redevelopment
Yukio Kawaratani
Former Senior City Planner with
Los Angeles Community Redevelopment Agency
Architect Takase had a major impact on the redevelopment of Little Tokyo for many decades.
To me, his most important projects were the Kajima Building, the first skyscraper constructed by a Japanese company in America.
Then the iconic New Otani Hotel and Weller Court., and his 30 years of multiple designs and locations to keep the Little Tokyo gymnasium alive, that has finally resulted in the construction of the Terasaki Budokan.
His legacy will be remembered for a long time.
(End of the message)

(Source: The Rafu Shimpo)
現在、ロサンゼルスで仕事をされている建築家、井上邦雄さまは、高瀬隼彦さんの建築設計の哲学に大きな影響を受けたと言われています。井上邦雄様と、奥様のなおみ様、連名のメッセージです
思い起こせば、半世紀も昔の 日本での学生時代からです。私の大恩師は、東京電機大学名誉教授だった(今はなき)船越徹(ふなこし・とおる)先生です。船越先生は、東京大学で高瀬隼彦先生とは同窓生で、共同設計や卒業設計を共にした大の親友でした。
私は学生時代から高瀬隼彦先生のお話は聞かされていました。日本一の大学、アメリカ一の大学院で建築の勉強をしただけでなく、日本一の、そしてアメリカ一の設計事務所を転々とした武者修行の武勇伝はよく聞かされていました。
我々新一世の建築家の大先輩として、常に一番の道のりを走り続けていらっしゃったと思います。私はそこからSecond is nothing! と言うスピリットを学んだ気がします。
私の恩師、船越先生、高瀬先生は建築の空間論を大事にする建築家でした。そんな話に影響を受けて、私も日本で大学を卒業するとまもなく、武者修行の旅として新しい建築設計を求めての旅をするようになったのです。
私もアイビーリーグの大学院で再び現代建築の哲学を学び、多くのアメリカの建築設計事務所を転々とし、腕を磨き、そして、私もロサンゼルスで設計事務所を立ち上げ、設計を続けてまいりました。
中途半端な建築設計をすることは許されない!
日本とアメリカで私を見つめてくれていた建築の恩師の方々がいたからです。
高瀬先生ご夫婦は船越先生ご夫婦が渡米するといつも我々夫婦もご招待してくださり、建築の空間論、価値観、建築の夢などの話に花を咲かせたものでした。大変楽しいひと時でした。
私がここまで建築設計を一筋に生きてこれたのは高瀬先生ご夫婦の建築への温かい心理的なサポートがあったからだと思います。ありがとうございました。
高瀬隼彦先生のご冥福を心からお祈り申し上げます。
(了)

南和正氏の提供写真:ハリウッドの高台の高瀬隼彦邸にて
1970s
1970年をはさんで前後4年間、高瀬さんといっしょに仕事をされた鹿島建設の南和正さまからのメッセージです。
鹿島建設の、現在の最高・取締役・相談役の鹿島昭一氏の指導の下、鹿島建設・建築設計・本部から社員教育の一環として多くの優秀な社員が高瀬隼彦氏にお世話になりました。
この鹿島の建築家たちは、帰国後、日本の建築界で大活躍、鹿島デザインを建設業界トップの地位にまで引き揚げました。
これは、日本側での鹿島昭一氏そして、受けるロスの高瀬隼彦氏、この東大、ハーバードのコンビの指導なしには現在の鹿島・建築設計・本部の地位はなかったと思います。
私もその中の一人です。DMGMへの研修留学、その後、リトル東京再開発、アメリカ日産、等多くの仕事を指導していただきました。
また、休日にはマンモス・マウンティンにスキーへ連れて行って頂き、若い青春の思い出が今でも記憶に残っています。この時代はスマホはまだ無く 写真も残っているのが手元にはない。その数少ない高瀬邸でのパーティーの一枚が天日(てんじつ)の貴重な写真です。
本当にお世話になりました。安らかにお休みください。そして、純子様も健康に配慮されてお過ごし頂きますように心からお願いいたします。
2019年3月29日 東京にて
(了)

2005年9月14日の最高裁の判決の日に(写真提供:若尾龍彦さん)
1990s
日本国憲法には、日本国民には、投票権があると規定されているですが、今から20年前には、まだ、海外在住の日本国籍を持つ者への投票制度がありませんでした。
この海外投票を実現させたのが「海外有権者ネットワーク」です。海外有権者ネットワークは1993年3月1日にニューヨーク、シドニー、バンコック、ロサンゼルスの代表が集まって結成されました。

2005年9月14日、最高裁判決の日に。(写真提供:若尾龍彦さん)
「海外有権者ネットワーク・日本代表」の若尾龍彦様からのメッセージです。若尾様は、現在は東京にお住いです。
高瀬さんのコミュニティへの貢献は実に多岐にわたります。しかし、私たち海外有権者ネットワークのメンバーにとって、高瀬さんはかけがえのないリーダーでした。
高瀬さんはロサンゼルスの「海外在住者投票制度の実現を目指す会」の設立総会に於ける発起人であり、後に「海外在住者投票制度の実現を目指す会・ロサンゼルス」の会長としてこの運動の牽引車の役割を果たしてくれました。
国会への請願のための署名運動、村山首相はじめ政治家・関係省庁への陳情、日本弁護士連合会への人権侵害救済申し立て、国を相手の違憲訴訟などで主導的役割を果たし、2005年9月14日の最高裁大法廷での勝訴を勝ち取り「在外投票制度の実現」を果たしてくれました。

最高裁判所の勝訴後の弁護士への感謝の夕べ(写真提供:若尾龍彦さん)
高瀬さんの信念に基づく確固たる粘り強い目標達成の意思がなければ、この運動が実ることは難しかったことでしょう。私たち海外有権者ネットワークの会員一同は、高瀬さんの献身的なリーダーシップに心から感謝しております。
ここにご生前の高瀬氏を偲(しの)んで皆様と共に、心よりご冥福をお祈りいたします。
(了)

オーロラ基金の提供写真。2009年4月8日撮影。
オーロラ日本語奨学基金の理事をされているオレンジ・カウンティー在住の住山・弘・先生からのメッセージです。
高瀬さんとはオーロラ基金の活動を通じて知己(ちき)を得、その後いろいろなところでお付き合いをさせていただ来ました。温厚なお人柄の中に凛としたリーダーシップが感じられ、そこに居られるだけで物事が良い方向にまとまっていったという印象を持っています。
その中でも私たち海外で生活するものにとって日本人としての基本的権利である投票権の確立にリーダーシップを発揮して多年にわたるご尽力の結果実現されたことは、単に現在海外で生活している日本人のみの問題ではなく将来海外で生活する人たちが海外から母国へ貢献できる大きな道を開いていただいたことであり、日本国への貢献の大きさは計り知れません。
まだ、海外有権者の投票率といった点では高瀬さんの期待に十分添い得ていないという現実があることは誠に残念であり、それは残された私たちの課題であり責任であると痛感しています。及ばずながら海外有権者の投票率向上への努力を続け高瀬さんのご期待に応えたいと願っています。
(了)

2019お正月 in Little Tokyo (Cultural News Photo)
2000s
1998年に「お正月in Little Tokyo」というイベントが始まりました。高瀬さんは日系商工会議所の会頭を1999年に努められました。
次のメッセージは、はやり日系商工会議所の会頭を努められた安部新二様からです。阿部様は、現在、日本にお住まいです。
高瀬令夫人様 ご主人のご逝去をお悔やみ申し上げます。
高瀬様にはJapanese Chamber of Commerce Southern Californiaの先輩・会頭として、そしてLos Angeles 日系人の大先達(だいせんだつ)のおひとりとしてひとかたならぬお世話になりながら、其の恩義の一片をもお返しするchance すらないままにこの世を去られましたこと大変残念に思って居ります。
高瀬さんは今や、毎年・盛況理に開催されていると伺いますが、”お正月in Little Tokyo"のアイデアを実現された方であり、二代あとの会頭を拝命した私も、4年間に亘(わた)ってこの催しを日系商工会議所のbig eventとして、担当させていただきました。
高瀬様は寡黙にして常にLow key乍ら、ご自分の意志をはっきりと示して我々を引っ張って行ってくださったことはっきりと記憶に残っています。
心よりご冥福を祈りいたします。2019年4月1日
(了)

東京高等師範・東京教育大・筑波大学の付属学校のロサンゼルス同窓会、ロサンゼルス郊外の Old Ranch Country Clubにて(写真提供:矢内久美子さん、酒井真由美さん)
高瀬さんは、東京高等師範学校・付属の小学校から中学を卒業されました。この付属学校は、その後、東京教育大付属、筑波大学付属と名前を変えていますが、この付属学校の同窓会がロサンゼルスにあります。
この付属学校同窓会のメンバー、矢内久美子(やない・くみこ)様からのメッセージです。
高瀬さんは、現在の筑波大附属小学校、中学、高校の先輩で、ロサンゼルスの同窓会「付属会」でご一緒でした。高瀬さんは永代・会長的な役割をずっと続けておられました。 謙虚ながら積極性にあふれる姿勢、リーダーシップ、穏やかで紳士的なお人柄で、後輩の面倒を本当によく見られていました。
高瀬さんと私の在学時期は20年近く差がありますが、小学校から高校まで同窓ということで「自由に生きる」という共通点がありました。
学校のモットーは「自主・自律・自由」で、高瀬さんもそういう生き方をされたと思います。

東京高等師範、東京教育大、筑波大学の付属学校のロサンゼルス同窓会、ロサンゼルス郊外の Old Ranch Country Club にて(写真提供:矢内久美子さん、酒井真由美さん)
高瀬さんの同期には、鹿島建設の鹿島昭一さん、日建設計の林昌二さんがおられます。付属時代の高瀬少年はきっと彼らと建築の夢を語り合っていたのだと思います。
高瀬先輩によれば学園生活は充実していたが、高校を卒業した翌年から男女共学になり、それを逃したことが残念だったと聞かされました。
高瀬さんが付属の同窓会をロサンゼルスでしっかり支えてくださったおかげで、海外で卒業生の交流の場が維持できたことを心から感謝しています。
(了)

2000年1月15日のLA東京会、ニューオータニ・ホテル内の千羽鶴レストランで(写真提供:横田康子さん)
高瀬さんの卒業された付属高校の後輩でもあり、ロサンゼルス東京会の発起人の一人で、現在、東京会の副会長をされている酒井真弓さんからのメッセージです。
「ロサンゼルス東京会を作りたい、事務局をやってほしい」と高瀬さんから打診があったのは1998年です。高瀬さんは現在の筑波大学の付属の大先輩です。 瞬く間に日系社会の重鎮10人の役員を集め会がスタートしました。「これまで東京の県人会は何回か発足したがどれも長続きしなかった、今度は長く続く東京会にしたい」と、高瀬さんは意欲満々で船出しました。
最初の仕事はキックオフ昼食会です。当時、日本の「英語落語]を広めるグループがアメリカ・ツァーを計画しており、ノーギャラでエンターティメントを引き受けてくれました。

提供写真:LA東京会
イベントがあと2週間に迫り、参加申し込みが100人に達した頃、 高瀬さんが「あの落語グループ、何かおかしんだよね」と言いだしました。
高瀬さんが落語グループと折衝役をしていましたが、直前になってメールに代わり電話連絡の機会が多くなりました。「向こうの担当者、皆、関西弁なんだ、電話番号は06から始まるし。。。」と高瀬さんが言います。
先方にお聞きしところ、なんと「上方落語」のグループだということがわかりました。東京会のキックオフに、上方落語というチグハグな組み合わせ、幹部一同青ざめました。
「英語の落語だからきっと大丈夫」と高瀬さんの決断に従い予定通り決行。当日のお題「時そば」、落語は白人の若い女性が行いました。そばの代金を 「1文(もん)2文、3文」と数えるところを「one, two, three」ですから、来場した100人のゲストの方に上方落語のことはバレずにすみました。
東京会の小さな秘密です。

2018年のLA東京会の20周年の新年会(提供写真:LA東京会)
それから10年 、2008年の10周年記念イベントのエンターティメントはまた落語でした。今回は経験を踏まえて、古典江戸落語の三遊亭鳳楽(さんゆうてい・ほうらく)さんを「どんと笑っておくんなせぇ」としてお迎えしました。
10周年イベントを準備しながら驚いたのは、高瀬さんの実務能力の高さです。その時に、いちょうのモチーフの東京会のロゴのデザイン、アートワークを自ら手がけ、プログラムのレイアウトと広告割付をやられていました。

高瀬隼彦さんがデザインしたLA東京会のロゴ (写真提供:酒井真由美さん)
ロサンゼルス東京会は20周年を迎えました。会員が減るなど大波に襲われたこともありましたが、乗り越えて、進んできました。高瀬さんという羅針盤を失った今、北極星をお星様になった高瀬さんだと思って、航海を続けたいと思っております。
(了)

2005年に、LA東京会は、オーロラ基金、LA着物クラブと合同のお花見を開催しました(写真提供:横田康子さん)
ロサンゼルス東京会の発足の翌年から参加されていて、現在、ロサンゼルス東京会・副会長をされている横田康子様からのメッセージです。
高瀬さんに初めてお目にかかったのは1999年の年末でした。丁度、仕事先の上司がロサンゼルス東京会の役員で、私が東京の出身であることを話したところ「最近できたばっかりの東京出身者の会で忘年会をやるから一緒においで」と誘われ、ノコノコ付いていったところ重鎮の方々に気に入られてしまい「それじゃ早速1月の新年会の司会をお願い!」「あ、それからニュースレター発行も宜しく」と忘年会が終わった時にはしっかりお役目を仰せつかって家路についたのでした。
それからはニュースレター担当ということもあって、会長の高瀬さんと事務局を担当されていた奥様の純子さんと頻繁に連絡を取り合いながら新年会、レークバルボアでのお花見、ハイキング、ハリウッドボウル鑑賞、ミュージカル鑑賞、マリナ・デル・レイでのランチクルーズ等いろいろなイベントを一緒に企画・運営させて頂いたことは楽しい思い出です。

2004年5月15日に行われたLA東京会のハイキング。Placerita Canyonにて(写真提供:横田康子さん)
私は高瀬さんが建築家として第一線で活躍されていた時代を直接存じあげていませんが、ウッドランドヒルズに設計された崖に沿うように建てられた見晴らしの良い邸宅にお招きいただき、高瀬さんが今まで手がけられた数々の建築物や庭園についてのお話を伺ったとき、凄い方と親しくさせて頂いているんだなあと感動したことを今でも覚えています。
そして常に高瀬さんの横には純子さんが付き添い、素敵なおしどり夫婦でいらっしゃったことも記憶に鮮明です。
高瀬さん、今まで公私にわたり大変お世話になり有難うございました。ご冥福をお祈りします。
(了)

高瀬隼彦夫妻と半田俊夫夫妻、2009年1月10日のLA東京会で(写真提供:LA東京会)
ロサンゼルス東京会の初代会長は、高瀬さんでした。そして高瀬さんの後を継いだ、2代目会長が半田俊夫さまです。半田さまも最近、東京に住居を移されました。
半田さまのメッセージを、現在の東京会会長、4代目会長にあたる、山崎一朗さんに読んでいただきます。
私たち夫婦も高瀬さんご夫妻には長年お世話になり長くご縁を頂きました。その中でLA東京会では会長の役を初代高瀬さんの後任として5年間引き継いだ者として、東京から高瀬さんのメモリアルの純子奥様に、夫婦として私的な内容で一言送らせて頂きたいと思いました。
私達はプライベートの場では高瀬さんをハーさん、純子奥さんをスーさんとお呼びしていました。
ハーさん、スーさん、はや3ヶ月ですね。ハーさんは天国できっと桜の吹雪を浴びたり、新緑に目を細めながら、きれいな音楽に耳を澄ませていらっしゃる事でしょう。
すーちゃんにそばにいて欲しいと思っておられるかもしれませんが、暫くは大好きな音楽だけで我慢していて下さい、、、、、と思いながら東京の空から和(なご)やかな美しいメモリアルの集いを想像しております。
どうかすーちゃんも高瀬さんの笑顔を胸に、新緑の光る自然と音楽の中でいつまでも穏やかで楽しい毎日をお過ごしください。
東京より心からの思いを込めて、 半田俊夫、俊子
(了)

LA着物クラブのショー、2004年の「お正月in Little Tokyo」にて(写真提供:芥川婦身先生)
2000s
ロサンゼルスの日本文化イベントでは、着物姿を見ることは、めずらしいことではありませんが、今から20年前、ロサンゼルスで着物を着ようと呼びかけたのも、高瀬さんでした。ロサンゼルス着物クラブは2000年1月1日に発足しました
ロサンゼルス着物クラブの発起人のひとり、鶴亀彰(つるかめ・あきら)様からのメッセージです。
敷島の大和心を人問わば、朝日に匂う山桜花
高瀬隼彦さんのことを思い出す時に、いつも頭に浮かぶのは本居宣長のこの歌です。高瀬さんは大和心と精緻な科学の心を合わせ持つ稀有な人でした。
私には一つエピソードがあります。1999年8月、当時南加日商会頭だった高瀬さんは二世ウィークのパレードにオープンカーに乗って参加していました。
羽織袴の彼の姿が当事のニューオータニホテルの白壁に映えて、実にカッコ良く見えました。私には美の極致(きょくち)でした。

LA着物クラブのお正月の集まり。2002年、日米文化会館プラザにて(写真提供:芥川婦身先生)
それがきっかけになり、現在のロサンゼルス着物クラブの誕生に繋がりました。最初は2000年の正月に日米文化会館前の野口プラザに、高瀬さんを含む5人の日本人男性が全員、羽織袴姿で揃いました。そしてその後は色鮮やかな着物姿の女性たちが参加するようになり、現在に至ります。
私は今、建設が続いているテラサキ武道館の完成を待ち望んでいます。それは日米の友好を心から願った高瀬さんが無償で設計したものでした。そこで日米の子供達がバスケットなどを一緒に楽しむ姿を今から想像して、胸が熱くなります。ありがとう、高瀬さん!
(了)

建築から30周年にあたる2004年の2月に「松声庵」で行われたLA着物クラブの総会と新年会(写真提供:芥川婦身先生)
2000s
グレンデール市ブランド公園内にあるティーハウス「松声庵」は、グレンデールの姉妹都市、東大阪市からの寄付を得て1974年に建設されました。「松声庵」の名前は、裏千家家元・十五世・鵬雲斎・宗匠によって命名されました。
高瀬さんたちといっしょに Friends of Shoseian を作った Julie Bagish さまとMartin Bagishさまからのメッセージです。
Friends of Shoseian
Julie Hunter Bagish, Co-Founder, Friends of Shoseian
Martin Bagish, Board Member of friends of Shoseian
We are so grateful for having met Takase sensei and his wife, Sumiko-san.
About ten years ago they joined the board of the Friends of Shoseian Teahouse, in Glendale.
They both attended these meetings regularly and contributed their time and ideas, generously, It was a very important addition, as we were trying to develop and sustain interest in the Teahouse, which Takase-sensei helped design.
Mr. and Mrs. Takase helped set in motion the idea of Japanese Cultural events, and not just Tea events, being held at the Teahouse.
During Takase-sensei's tenure as President of the Kimono Club, he and Sumiko-san hosted two notable Kimono Club events, at Shoseian.
It was the beginning of program building and thinking outside the 'Tea box.'
Now, we have so many ideas and participants because of Takase-Sensei and his wife.
(End of the message)

第15回オーロラ・コンサートにて。2013年10月19日。(写真提供:オーロラ基金)
2010s
アメリカでの日本語教育を応援する活動をされているオーロラ日本語奨学基金の会長、阿岸明子(あぎし・あきこ)様からのメッセージです。
高瀬隼彦さまには本当に長い間、私的にもAurora Foundation日本語奨学金基金でも筆頭副会長として、設立した1998年からもメンター的な存在で言葉に言い尽くせないほど、お世話になり、20年以上の間、ロサンゼルス日系コミュニテイーでのNPO活動でご指導をいただいて まいりました。
隼彦さまは建築業界では世界的な偉大な足跡を残されていますが、このロサンゼルス・コミュニテイの偉大なリーダーでもありました。また友人として、Mammoth Mountainにも何度もご一緒し、Aurora Foundation のCharity Cruise にも純子さま とご一緒に参加され、お二人のWedding Anniversaryのお祝いをしたことなど、数々の楽しい思い出を残してくださいました。

第10回オーロラ・コンサート。2008年12月3日(写真提供:オーロラ基金)
去年の10月にはAurora Foundation日本語奨学金基金 創立20周年を迎え、長年筆頭副会長として支えていただいた高瀬様のご貢献に感謝を伝えることができましたが、12月にはAurora Holiday Partyにもご出席していただける予定で、高瀬さまご夫妻も楽しみにしておられましたのに急遽キャンセルになり、最後は1月4日のAurora理事との恒例の新年会こそはご一緒できるとお約束していただいたのがこれも実現できず、最後となり、もっとご一緒していただきたかったと、ご急逝されたことが、いまだ信じられないで、おります。
安らかに永眠された高瀬さんとのお別れは本当に悲しく、また寂しいのですが、生前の沢山の楽しかった思い出と誠実で温かく見守っていただいた20年余の友情に心から感謝し、これまでの沢山のご貢献いただいた宝物を大切に理事一同、これからも精進して日系コミュニテイのためにお役に立っていけたらと願っております。
Aurora Foundation の理事一同、また沢山のボランテア、サポーターを代表して、ご冥福をお祈りいたします。
(了)

2017年12月のAurora Holiday Gathering に参加した高瀬さん夫妻(写真提供:オーロラ基金)
2010s
オレンジカウンティーの日系協会の役員をされている朝倉巨瑞(あさくら・ゆうま)様からです。
高瀬さんと最初にお会いしたのは、10年前の日本語奨学金基金での理事会での会議のことだったと思います。強い主張をされることはなく、黙って皆さんのご意見を聞かれていると思ったら、ご自分の時には、なるほど、という発言をされていたことが印象的でした。
日系コミュニティーに大きな貢献をされた有名な建築家であることは、後に知りました。その後、海外有権者ネットワークでの会議などでもご一緒させていただき、在外日本人の海外での選挙権の取得でも大きな役割を果たされました。
個人的には、引退者ホームの売却への意見や、地球環境に関するインタビューもさせて頂いたことなど、10年にわたり、様々な場面におきましてご一緒に活動ができたことを私自身の誇りに思っています。
最後にお会いしたのは、敬老引退者ホームで過ごされていた時期だと思います。顔一杯に笑われた姿が目に焼き付いています。偉大な先輩として、とうてい追いつく事は出来ませんが、私たち日系社会が歩む道に迷わないように見守っていただけることを願っています。本当にありがとうございました。
(了)

2017年8月3日に、リトル東京で、テラサキ武道館の起工式が行わました(Cultural News Photo)
リトル東京では、2017年8月に、テラサキ武道館の起工式が行なわれました。この起工式の中に、高瀬さんの姿がありました。高瀬さんはこのプロジェクトにもご尽力されました。このプロジェクトの事業団体は、リトル東京サービスセンターといいます。高瀬さんは、1994年から2008年にかけて、リトル東京サービス・センターのために、何度も完成予想図を描いてきました。
リトル東京サービス・センターのエグゼクティブ・ディレクターを長年勤めたビル・ワタナベ様からメッセージを寄せていただきました。
Terasaki Budokan Project
Bill Watanabe, Former Executive Director of Little Tokyo Service Center
The Budokan Project will be completed soon but when we first started working on the project it was just an idea that Mr. Takase brought to life on paper through designs and drawings.

2011年8月にアラタニ財団から武道館プロジェクトに$1million の寄付が贈られました(Cultural News Photo)
Takase-san made several conceptual drawings over a long time (perhaps from 1994 - 2008) because we considered many sites while we were looking for a place to put the Budokan.
We considered the tinker-toy parking lot next to Union Center for the Arts, the property where the Office Depot was built, the property where AVA housing was built, and other locations. He made drawings for all those to help us make sure the location was feasible.
Mr. Takase devoted countless hours to illustrate how the Budokan might appear and he even made a scale model that showed people a magnificent facility that would serve the entire community through competitive sports, fitness programs, martial arts, and special events.
The Budokan project owes a tremendous debt of gratitude for Takase-san's vision, commitment, artistic skills, and unbounded energy.
(End of the message)

2018年4月18日に、グレンデール市の松声庵で行われたサクラの植樹式の後で(写真提供:芥川婦身先生)
2018年4月、グレンデールにあるティーハウス「松声庵」でグレンデールと姉妹都市の東大阪市によるサクラの植樹式がおこなわれました。
高瀬さんといっしょにロサンゼルス着物クラブの設立に尽力された着物コンサルタントの芥川婦身(あくたがわ・ふみ)先生からのメッセージです。
純子さま、2018年4月16日、グレンデールの日本庭園で、グレンデール市会議員と東大阪市の市会議員によるサクラの木の植樹式が行なわれましたね。
高瀬さんと純子さんはお迎えの車が来るまで、でこぼこの石の上に腰掛けていらしたですね。
今年の元旦のリトル東京での着物ショーでは大勢の出演者が舞台に立ちました。毎年、パパさまのお姿があるのに、今年は、お姿を見ることができませんでした。しかし、わたしの思い出には、生き生きとされて、お優しいパパ様のお姿が消えません。
(了)
Cultural News 関連記事 Obituary - Hayahiko Takase: Architect by profession, cultural treasure within Japanese American community