2017/LA半田俊夫の日本紀行/舞鶴の「引き揚げ記念館」訪問記2017年8月(完結編)

京都府舞鶴市にある「引上記念館」

京都府舞鶴市にある「引揚記念館」

By 半田俊夫 (パサデナ)
8月に日本で旅行中、ちょうど終戦記念日だった15日、京都市内から山陰線で一日かけて舞鶴港の「舞鶴引揚記念館」を訪れた。その旅記を羅府新報に掲載したが、字数枠内に思いを全部書き入れられなかった。ここに本文に少し手を加えると共に、書けなかったが残したい内容を「後記」として下に加えた。
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今回の引揚記念館では、以前書いた鹿児島県知覧の特攻平和会館や長野の戦没画学生の遺作を展示する無言館を訪問した時と同じで、ハンカチで涙を拭きながら歴史展示を見て回ることになった。
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日本の降伏による第二次大戦の終結時、660万人を越す日本人が海外に残された。その地域は主に中国大陸、朝鮮半島、東南アジア、それに60万人のシベリア強制抑留と言われるソ連だった。降伏当初の日本政府は空襲で荒廃した国土と食糧不足の国情から、海外残留日本人の現地定住の方針を掲げた。
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だが追って日本人一斉引き揚げへと方針転換、昭和20年末から各地の残留日本人の帰還船による引き揚げが始まった。引き揚げ船を受け入れる港として政府は全国に十数の引き揚げ港を指定したがその中で最大が舞鶴だった。舞鶴は昭和20年(1945)の第一船入港から同33年の最終船まで実に13年の長きに亘り、且つ昭和25年以降は唯一の引き揚げ港として引き揚げ史の中心舞台となった。

ソ連邦内の日本人墓地の地図 (半田俊夫撮影)

ソ連邦内の日本人墓地の地図 (半田俊夫撮影)

各地からの引き揚げは大規模にほぼ順調に進み約5年で大方終ったが、ソ連が自国内に強制移送し強制労働に投入した日本軍人捕虜と民間人60万人の引き揚げは別で容易に進展しなかった。
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60万人の内、数万人がシベリアのマイナス30度C以下と云う極寒の中での劣悪、過酷な環境で栄養失調や病気で命を落とし、また生きながらも帰国を果たせなかった残留者もあり、最終的にソ連からの帰還者は43万人と言われる。舞鶴港が引き揚げ港として計13年に亘りソ連や大陸から迎えた引揚者の総数は66万人、遺骨2万柱とされる。
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子供の頃、帰還船の舞鶴到着の模様をテレビの無かった時代で映画館の白黒ニュースでよく見た。生きて帰国を果たした兵士たちが出迎えの妻や母、家族とみな粗末な衣服で泣いて抱き合う場面をいつも見た。一方、望みを持って舞鶴港に来たが待ち人帰らず空しく佇む母親や妻たちの姿もあった。当時ヒットした歌謡曲「岸壁の母」は戦争が終っても消息不明で帰らぬ息子の帰国を信じて港の岸壁で待ち続け、81歳で生涯を閉じた実在の女性をモデルにしている。
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舞鶴には昭和45年に港を見下ろす丘に記念公園が作られ、同63年にその公園の隣接地に引き揚げ記念館が建設された。記念館は風化しつつある引き揚げの歴史を継承し平和の尊さを発信しようとしており、今から2年前に人類が共有すべき歴史資料としてユネスコ世界記憶遺産となった。決して多くはないが常に絶えない訪問者を静かに迎えている。重い感慨と深い祈りを持って記念館を後にした。

舞鶴引揚記念館の 展示の例 (半田俊夫撮影)

舞鶴引揚記念館の 展示の例 (半田俊夫撮影)

舞鶴引揚記念館にまつわる後記
○歌謡曲「岸壁の母」のモデルとなった女性は戦後、シベリア抑留された息子が消息も生死も不明だが、必ず帰ってくると信じ、帰還船が来る度に東京から20時間かけて舞鶴港に通った。残酷なことに戦後9年の昭和29年になって厚生省から息子の死亡認定書が発行され届いたが(歌はその年に発売された)それでも女性はその後も舞鶴に通い桟橋に立ち続けた。歌詞の「もしや、もしやに」はその母の心情を詠んだと言われる。
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生きて帰還した元兵士たちと出迎えた家族が抱き合って泣く光景は子供の頃ニュース映画で見ていて涙を誘われたが自然な感動の光景に映った。だが後年成人して振り返ると、日本人は普通は人前で抱き合ったり泣いたりしない民族だと分ってきた。ましてや引き揚げは戦前の厳しい軍国主義の時代から直接続く敗戦直後の時代だったと考えた時、あの光景は過酷な時代と環境の中で家族愛の命と命が慟哭する特別な場面だったのだと思い返した。
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○ソ連の強制抑留は大戦末期の1945年8月にソ連が日ソ中立条約を一方的に破棄して満州、千島列島などに侵攻した事から始まった。尤もこれは2月のヤルタ会談でソ連の対日参戦が米ソ秘密協定でルーズベルトとスターリンの間で極秘裏に合意していた事だった。
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具体的には8月6日の広島原爆投下に続く9日の長崎原爆の当日、ソ連は対日宣戦布告し突然上記の攻撃を開始した。15日に日本がポツダム宣言受諾により降伏、各地の軍の降伏、武装解除の後もソ連の攻撃は続き日本側に軍民多数の死者を出した。ソ連は投稿した日本軍捕虜と軍属、民間人をソ連に強制連行した。一般に60万人とされるが、モスクワのロシア国立軍事公文書館には76万人分に相当する資料が収蔵されていると言われる。
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よくシベリア抑留と言われるが実際は抑留された日本人は広大なソ連内の東から西まで約70箇所に移送され各地で強制労働に投入された。捕虜の強制労働は違法であったがソ連は日本兵とドイツ兵を過酷な環境で強制使役し万単位の多数の死者を出した。旧ソ連邦内に日本人墓地は23箇所が確認されている。
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○一つの逸話として、当時はソ連邦で今は独立してウズベキスタンとなっている地方に2万5千人が移送され建築工事などに従事させられたが、その内の500人が現在首都タシュケントの代表的建築物となっている「ナボイ・バレー劇場」を1947年に建築完成した。1966年に大地震がタシュケントを襲い大多数76,000の建築物が倒壊した中でこの劇場は無傷で、市民の避難場所としても機能した。これによりウズベキスタンの人々は今でも日本人に感謝し讃えており、実際1996年に同国大統領は日本人を恩人として讃えるプレートを劇場に設置している。
(完)

舞鶴港の風景 (半田俊夫撮影)

舞鶴港の風景 (半田俊夫撮影)

半田俊夫:
東京出身。パサデナ市在住。在米約40年。元航空業界商社経営。以下の諸ボランティア活動を行う:羅府新報の随筆「磁針」欄に毎月執筆。日刊サン・ポエムタウン欄の川柳選者。パサデナ・セミナー会主宰。命の電話友の会、茶道裏千家淡交会OC協会などで会長として現役ボランティア活動。他に南加日系商工会議所、日米文化会館、小東京評議会、南加県人会協議会、米国書道研究所などの理事役でもボランティア活動中。日系パイオニア・センター、L.A.東京会、および小東京ロータリー財団の会長を歴任。リトル東京ロータリークラブ創設会員。南加日商の元会頭。