
『家庭内捨て子物語』 (論創社)の表紙(左)と著者の入江健二さん (Cultural News Photo)
南カリフォルニア庭園業連盟が発行している月刊「ガーデナーの友」2017年4月号に掲載された「ガーデナーの妻・山中眞知子」からの転載です。ガーデナーの友PDF版
「家庭内捨て子物語」 著者 入江健二
入江健二さま、はじめての小説を上梓され、おめでとうございます。「創作です。日本では(ラジオ日本)で放送されたそうです」私は手紙を読みながら、彼の渋いはにかみの笑顔が浮かんできた。
創作とは、現実や作家の思いがまじりあった虚虚実実のかけひきなのです。
ぼんやりグズ二郎の苦しみを書いた、この作品は、第一部 若葉、 第二部 青空
によって構成されています。 私は二回にわけて感想を述たいと思います。
まさに「家庭内捨て子物語」です。
長男の洋行、三男の勝男は父の期待の子である。仏壇の鐘叩き棒が畳に落ちていた。ただそれだけの事に長男、三男は「僕じゃない」で通るのに、二郎は「正直に言え」と父のいじめが始まる。兵学校の教官として鍛えた父の平手打を受ける。最後には「ウソつき」呼ばわりをされる。叩かれた痛みだけでなく、心がこわれていくのだ。次男の野呂二郎は余分の子だったと父は悔むのだ。「青すたんボーフラ」父の田舎の言葉である。「顔色が悪くて、ボーフラのように弱い子」なのである。野呂二郎は難産の子で、肉体の缺陥も多く、頭も鈍い。家庭内暴力は深まるばかりである。
小学生になった二郎は、夢にすがって生きた。いかだに乗って海の島へ家出しよう。「ロビンソン・クルーソー漂流記」などが助けになった。
二郎は夢の世界にもぐりこみ読書好きになった。フランスが生んだ偉大な医学者「ルイ・パスツールの伝記」など読み始めた。二郎は医者になりたいと思った時、胸が熱くなるような嘗て味わった事のない、不思議な感じだった。
一九五四年、父はフルブライト奨学金で、アメリカの新学期に向かって出発。二郎は父がいなくなって、いじめから開放された。母は父の渡米前は四十六キロあったのに、二年後は三十五キロに落ちた。そんな時、「留学期限が一年延長」母はがっかり。二郎は慰め役である。
一九五九年、二郎は東都大学不合格。後に予備校の入試に合格。二郎の頭に一つだけ長所が隠されていた。「なかなか覚えないが、一度覚えると忘れない」その長所がこの時期に効果を表した。
一九六〇年、成績上位一〇〇人の名前が並んだ。これまで二郎の名前が出た事はない。五十九の数字の下に野呂二郎があった。名前の周りだけがほんのりと明るく見えたのだ。
三日間に渡る入学試験は続く。「もし駄目なら死ねばいい。どうせ歓迎されずに生きていた自分なんだから」そんなに云われると、私は読みながら、本気で応援したくなる。
秋の午後の陽射しの入る明るい教室の中で教授の抑揚のない声が遠ざかる。二郎は窓の外の黄ばみ始めたイチョウの葉が揺らいで、秋の日光を弾くありさまをボンヤリと眺めている。二郎も私も、自然の美しさで救われる。幾度もなぐさめられる。
「一九六二年度 東都大学医学部 合格者」巻き紙にはそう書いてあり、貼り付けられました。
「野呂二郎」の四文字が目に飛び込んできました。
「助かった、死なずにすむ」二郎は思いっきり深呼吸しました。吹いてきた風が、二郎の頬をなでて通り過ぎました。二郎は思いっきり深呼吸しました。すでに高く昇った春の陽が、二郎の少しいびつな頭を照らしていました。
難産の時、引張り出された頭はいびつなまま、生涯いびつなのだ。
第一部、若葉は終る。
私は疲れ切ってグッタリした頭で「二郎、よく生き抜いたね」と二郎を抱きしめた。残された片目もぼんやりの坐ったきり老人の私も、命ある限り、生き抜かねばならない。人はみな、何らかの苦しみを背負って生きているのだ。
二郎は家庭内で誰の味方もない。家出の夢や、自然の美しさに救われて、人を恨むこともなく道を築いていった。二郎は五歳の時から家庭内暴力に苦しみながら、苦しんでいる人の味方になりたいと言う人間に成長したのだ。私など、十四歳からの喘息で生涯苦しみながら、健康な人を恨みっぽく思ったりしたものだ。坐ったきり老人がどんなに有難いことか、寝たきりの人だっているのだ。食物が咽を通らず、管で栄養をとって生きている人もいるのだ。
二郎は一九五八年、リストカットで自殺しようと思った事もあったが、「自分のように死にたくても死ねない人間がいるのに、世の中には病気のため生きたくても生きられない人がいる」
「ヨシッ、無茶な話でも医者になるぞ」最後になって二郎の心意気を思い出しております。
(この文章の筆者は、山中眞知子さんです)
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南カリフォルニア庭園業連盟が発行している月刊「ガーデナーの友」2017年5月号に掲載された「ガーデナーの妻・山中眞知子」からの転載です。ガーデナの友の紙面PDF版
「家庭内捨て子物語」 著者 入江健二 第二部 青空 イースト・ロスアンゼルスへ
一九七一年。二郎は三〇才になっていた。築地のがんセンターへ友人を訪ねていった時、友人の妹古田幸子に会った。その後、彼女からガン研究の手ほどきを受けながら、結婚する事になったのである。子どももすぐ生まれ太郎と名づける。
ガン研究も思わしくないと妻の幸子に話していると「アメリカかどっかへ留学しようよ」二郎は幸子の辛さを知らなかった。
「理学部出身で女のアタシが医学の分野でどんなに差別されているか知らないのよ」
「そうか、行くならアメリカだね」英語は二郎の得意だった。医学雑誌で、人間のガンの免疫性を追求しているロナルド・モーガンを見つけた。
二郎は祖母が子宮ガンで亡くなった事も含め、妻のマウス乳ガンの研究についても書き添えた。
早い返事がきた。
「自分はまもなく西海岸のUCLAへ移る。二人に来てもらいたい」恐ろしいほど安い給料だった。覚悟の上である。
勤め先は、UCLAメディカルセンター外科ガン研究部、モーガンの研究員だ。
二郎が渡米して、丸一年が経った頃、ミスター・タナカという人物からの電話を研究室で受けとった。日本での事二郎は東京の鬼久保病院で、F女史の虫垂炎の手術を執刀していた。F女史は「ベトナムに平和を市民連合」平和運動のグループに属していた。ミスタータナカはF女史の話をした。われわれのグループでスピーチを頼んできたのだった。
二郎は家族をウエスト・ロスアンゼルスのアパートに残し、中古のフォードで出発した。リトル東京のコーヒーショップで会った。タナカの本名はシンゴ・オーノ「なんかボクのオヤジに似ている。北九州男子の顔だ」ソト・ストリートを通過すると、シンゴ君の生活共同体があった。運動仲間一〇人ほどが住んでいる。
広いリビングルームに二〇人ほどの若い男女が待っていた。
「ぼくの兄も弟も確かり者でした。ぼくは難産で、体もまともではなく、ぼんやりグズでした。父はぼくを嫌い〈一人多すぎた〉と母に言ったそうです。」
二郎はひと息ついて、東向きの窓から、午後三時の青空を眺めていた。
シンゴ君から野呂瀬義男さんを紹介された。野呂瀬義男さんとマンザナー巡礼に行った。仲地信政氏はJAWA( ジ ャ ワ)の会長だと紹介された。日系人社会のことが少しずつ分ってきた。JAWAの中に「健康相談室」を作り、相談相手になって欲しいと頼まれる。
二郎はJAWA(日系福祉受給者の会)で月に一度「健康相談室」を開く事になった。日系一世や帰米二世の苦労話などききながら健康相談に応じるようになっていた。
一九七六年、基礎、臨床合わせて一〇科目、二郎は合格した。二郎は「ポケベル付きのドレイ」というアダ名をつけていた。四〇歳近い二郎は、そんな生活を四年間続け「やっとあと一年」となった一九八〇年の六月に事件がおきました。読んでいても、二郎と一つになって苦しくなります。
UCLAの仕事は駄目になるかも知れない。妻の幸子はUCLAの中でも生物学として免疫を研究する部門へ移ることになった。理学部出身の彼女には、そういう道を選ぶだけの興味と力が備わっていた。
二郎はマウント・サイナイ病院の外科臨床研修の生活は事件のために駄目になるかも知れない。辞めさせられる前に、辞めてやろう。
「よし、一世や帰米の人たちのために開業しよう」と思ったとたん、フリーウェイを走る足に、しっかりと地面を踏みしめる感覚が生じた。「そうか。ここが僕のふるさとなんだ。」
ロスアンゼルス・リトル東京の三番街。
ジャカランダの木は、二郎の目には、紫のトンネルの先に緑のトンネルが見えます。
「あゝ、あのトンネルはここに続いていたのか」
小学校六年の五月、二郎がはじめて医者になることを夢見た。あの若葉のトンネルです。
二郎は今、平凡な開業医です。
「でも、ここにはボクを必要としてくれる人たちがいる」
そうです。二郎の患者でなくても、二郎を頼りにしている人もいます。
今日はウォーカーにもたれて家の中を歩いても、五、六歩がやっとである。私は入江ダクターより「処方薬に頼らぬ健康維持」と題した本をいただいた。JWRO日系福祉権擁護会。健康相談室からの書物。私の座右の書だ。
彼は、社会運動までなさるから、ダクターの健康が心配です。
「朝はコーヒーショップで、走り書きですよ。やっと一冊の本になりました。」
(この文章の筆者は、山中眞知子さんです)
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できそこないと見下され暴力をふられ続けた少年が地道に努力して医者になる姿―入江氏の筆の力が読者をわしずかみにして知らず知らずのうちに少年の道程に寄り添わせてしまう。感動の中にもホッコリするユーモアがあり、作者の人柄をおもわせる珠玉の作品です。(佐恵子 Dickinson)
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一流大学卒の作者と出会った時、先ず戸惑ったのは其れまで出会った多くのエリートと全く異なる人柄でした。唯、彼が将来を約束されていたであろう日本の医師界を捨て、リトル東京の開業医として甘んじているのがこの本を読み納得出来たように思います。(椛島重信)
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『家庭内捨て子物語』を読み始めて、止まらなくなりました。世田谷区松原。私が住んでいる桜上水から近いです。松原のスーパーまでときどき買い物の歩きます。東京で育ち、学会等であちこちのキャンパスを歩き回ったので、若い頃が思い出されます。
人生いろいろ、挫折しても、気持ちの持ち方で人生やり直せますね。むしろ不器用な人の方が、人生諦めないでがんばれるのかも、と思っていましたが、このご本はそれを「確信」させてくれました。
先生の歩まれた人生だと思い込んで読んでしまいましたが、とても勇気を与えてくれる本だと、読み始めてすぐ直感いたしました。ぶっきちょで、「家庭内捨て子」であっても、転び転びしながらも、人生を歩んで行ける、人様のお役に立てる・・・勇気を下さる言葉があちこちにあります。「哲学者」ではなく、「人生大学」で学ばれた方だからこその、エールが聞こえて来ます。
いじめで苦しんでいる子どもたちにはもちろん、子どもを殴ってしまうことに恐怖感を覚えて育児放棄してしまう母親たちに、殴ることはやめられるんよ、とこの本は寄り添ってくれます。
粂井 輝子(くめい・てるこ)白百合女子大学 英文学部教授 日本移民学会メンバー
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児童虐待は家庭内暴力のうち、特に近年になって日本ではやっと頻繁に報道されるようになりました。というのは、今まではまさか実の親が我が子を。。。という一般観念の強いことがあり、他人の家庭内での出来事を干渉するのはどうか。。。というためらいも強かったからです。
虐待を受ける子供達も幼年である程、自らその境遇に責任すら感じ、加害者(殆どの場合、実の親)を本能で擁護さえします。加害者に非があるという認識が出来るのはずっと後のことです。ただ、身体の傷は癒えても心の傷は多くの場合癒えることはありません。
加害者も虐待の本質が「パワーとコントロール」という理不尽な力関係にあると気づかずに衝動的行為に走り、後で悔んだり自責の念にとらわれたりします。でも、次の同じような状況では再び制御出来ない行動に出るのです。また、加害者も過去の被害者であることが多く、一人でも多くの人々が児童虐待や家庭内暴力の危険性を悟り、次の世代に連鎖させないことが大切です。そのことを当書はしっかりと提示してくれました。
椛島重信 (元ロサンゼルス・カウンティー児童、家庭福祉局ソシアルワーカー)
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『できそこない』と見下され暴力をふるわれ続けた少年が地道に努力して医者になる姿 ー 入江氏の筆の力が読者をわしずかみにして知らず知らずのうちに少年の道程に寄り添わせてしまう。感動の中にもホッコリするユーモアがあり、作者の人柄をおもわせる珠玉の作品。
佐恵子 Dickinson(同時通訳専門家)
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『家庭内 捨て子物語』、拝読しました。
赤裸々に自分自身の心をさらけ出された勇気に乾杯。
日蓮大聖人曰く、
「蔵の財よりも身の財すぐれたり身の財より心の財第一なり、此の御文を御覧あらんよりは心の財をつませ給うべし」。
鎌倉時代に大聖人は金よりも地位よりも何よりも増して心が大事だからこそ心をいつも磨きなさいと指南しています。でも幼少期に心の中にどんな種が植えられたか、第三者からはその種が成長してみないとどんな種なのか分からないものです。時には重大事につながることもあるでしょう。
でも主人公が受けた家庭内暴力やいじめで心に植えられた負の種を主人公は努力により夢の種へ、そして、使命の華へ変え、個性尊重の「桜梅桃李」の人生へと開花させている事に感動しました。
高山啓子氏の挿絵は内容の暗さを包み込んでホッとさせてくれました。
山口国宏
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入江健二さま
「家庭内捨て子物語」ありがとうございました。
〇〇さんが持ってきてくれました。
さっそく拝読いたしました。
「次郎物語」や「しろばんば」みたいな読後感のあるあざやかなお話でした。
ほんとうにありがとうございました。
またいずれどこかでお会いできますことを!
伊藤比呂美
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入江 健二先生
大変ご無沙汰しております。
入江先生、いかがお過ごしでしょうか。
先般は立派なご著書を頂戴いたしまして、本当にありがとうございました。
じっくり読ませていただいて感想と共にお礼を出させていただこうと考えておりましたら、すっかり遅くなってしまいました。
失礼しておりました。 さて!!入江先生!!しかと読ませていただきました。
読書後は、毎度、二郎くんの人生の旅に同行した感覚を味わわせていただいておりました。
二郎くん、本当に辛いこともたくさん、エキサイティングな経験もたくさん、人々の温かさと優しさに触れることもたくさん、まさに波乱万丈、二郎の冒険物語のようでもありました。
いろんな荒波を乗り越え、一方で、傷つきを抱えたまま、でも、その傷つきも色や形を変え、過去は変わらないけれどもそれを眺める二郎の眼差しがゆっくりと変わっていく様に感動しました。
優しく柔らかく溶けていくという感じでしょうか・・・。
終盤、過去受け入れ難かった様々なことを大きくゆったりと抱えていく二郎のたくましさと寛容さと包容力が素敵でした。
バラバラであったものが、やさしくまとまっていく、統合されていくようでした。
そして、読者である私は、二郎くんからたくさんの勇気と生きる力をいただきました。
日本にあった差別は、米国にもあり、そして、今もあり続ける。
そして、二郎くんはその深い人間のテーマに真摯に関わり続けようとしておられる。
今年2016年に発表された男女格差調査(ジェンダーギャップリサーチ)
日本は144カ国中111位であることが公表されました。
日本の男女が経済的に平等になるには170年かかるとのことです。
http://www.nikkei.com/article/DGXLASDF25H07_V21C16A0EE8000/
私はこの結果に全く驚きません。
むしろ、「・・・だよね?!!」と自分の体験が自分だけの体験ではなく、社会レベルの問題だったことが証明され、しかも世界の人々に向けて広く公表されたことが本当に気持ち良かったです。
そうなんです!社会に出て自分の力を発揮しようとする日本女性は物凄く生きづらさを感じているのです。
米国に行くと、自分が自分でそのまんまでいいんだという解放感を味わうことができます。
できることなら私も米国に移住したい。
二郎くん物語を読みながらそんなことも考えたりしました。
たくさんの人の心に響く物語だと思います。
入江先生、ありがとうございました。
またお会いできますように。
その日を楽しみにしております。
それでは入江先生もお身体の方、どうぞご自愛ください。
牧野有可里 (横浜創英大学 こども教育学部 准教授)