2013 /ロサンゼルス / 被爆地蔵の写真展 / 8月2日から6日まで
「ヒロシマの原爆地蔵写真展」が8月2日から、ロサンゼルス・リトル東京で始まりました。
August 2 -6, 10 am – 5 pm
Hibaku Jizo Photo Exhibition by Ken Shimizu
Japanese American Cultural and Community Center, North Gallery
244 South San Pedro Street, Los Angeles, CA 90012 www.jaccc.org
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1945年、広島に投下された原爆を受けても、まだ残っている地蔵の写真展が、8月2日から6日まで、ロサンゼルスで行われます。
写真展の英語タイトルは Hibaku Jizo Photo Exhibition です。場所は、リトル東京の日米文化会館ノース・ギャラリーです。展示時間は午前10時から午後5時まで。8月3日から6日まで行われる Remembering Sadako: Folding for Peace の一環として、地蔵写真展が行われることになりました。
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被爆地蔵を写真で記憶
広島の石仏など物言わぬ証言104点、米国でも写真展
清水 顕
日本経済新聞2013年7月30日(火曜日)文化
うち砕かれた首、焼けただれた顔、ケロイドのように残るヒビ ――。広島市の中心部には1945年8月6日に投下された原子爆弾で熱線や爆風を浴びた地蔵尊が今も多く残る。
「撮らねば」と
広島で生まれ育った私は4年前から被爆した地蔵尊など石仏や墓石の写真を撮り続けている。市内約40カ所で撮影した104点を収録した写真集「地蔵の記憶」をこのほど自費出版し、広島で写真展を開いた。8月には現地に住む同郷の友人の勧めもあり、米西海岸で写真展も開く。
東京の写真学校で学び、30代半ばまでフリーのカメラマンとして雑誌やミニコミ誌の仕事などをした。その後、印刷会社に勤め、写真は趣味で撮り続けた。被爆地蔵を見たとき、「撮りたいもの」というよりは「撮らなければいけないもの」に巡り合った気がした。
2009年夏、県外の友人を広島平和記念公園に案内して周った時のことだった。原爆ドームを一周した後、何気なく見た公園の街路灯の柱に矢印が貼り付けてあるのに気がついた。指す方に歩くと、50メートルばかり先に小さな地蔵尊像があった。
爆心地から80メートルの距離にある西蓮寺の被爆地蔵尊である。「原爆の熱線がほぼ真上から来たために、側面と地蔵尊の陰になった部分は滑らかであるが、他の部分は表面がザラザラになっている」と説明板に書かれていた。触ってみると石の表面の違いがよく分かった。
よくそばを通っていたのに、今までなぜ気付かなかったのか。強いショックを受けた。この地蔵は「8月6日」をしっかり記憶しているのだ。
「ヒロシマの地蔵さま」は他にもあるのではないか、もしあるのならば、その記憶を残さなければいけないという思いにに駆られた。以来、市内のお寺を訪ね歩き、無知を恥じ入りつつシャッターを切るようになった。
被爆者の姿とも重なる
被爆した石仏の姿は、自身も被爆した母が生前に語っていた被爆者の姿とも重なる。しかも、半世紀を越える風雪に耐え、後世に原爆の悲惨さを伝えようとしているように思えた。
被爆地蔵には頭部が失われたままになったもの、他の首にすげ替えられたもの、折れた首をセメントで修復したものなどもある。爆風でとばされた石などが当たったのか、顔の中心が陥没したもの、爆風を浴びたためか、背中がくだけたものもあった。
二度三度と同じ寺に足を運ぶと、新たな発見もある。最初は気付かなっかた細かいひび割れや、その時どきで変わる面差しなどだ。
被爆地蔵の前掛けや頭巾を人知れず提供し続けいる方がいることも、繰り返して撮影しているうちに分かった。写真展で来場された男性にその話をしたところ、「実はずっと母が続けていたのを、母が亡くなった後、私が引き継いだんですよ」と言われてびっくりした。親子二代で被爆地蔵のお世話をされた方が、私の写真展に足を運んでくれていたのだ。
これまでに、爆心地を中心に半径1.5キロメートルほどの範囲で、約60のお寺を回った。そのうち、約40カ寺で被爆した地蔵尊や石仏、墓石の写真を撮らせてもらった。
もちろん、事前にお寺からは撮影の許可をいただいている。「被爆されたお地蔵様がいらっしゃったら、拝ませてください」とお願いした上で、私の意図を説明し「写真を撮らせてもらってもいいですか」と尋ねる。
怪しい商売ではないかと警戒の目を向けられることもあったが、足しげく通って丁寧に説明し、ようやく撮影許可をいただいたお寺もある。三脚は使わないようにしている。他の人のお墓に足を踏み入れたり、触ったりしないように注意しながらシャッターを切る。
写真集には英訳解説も
写真集には、外国の方にも関心を持ってもらいたくて、解説などには英訳を添えた。英語のタイトルは「Silent Witnesses」「物言わぬ証言者たち」という意味だ。
写真展は被爆の爪痕が今も残る旧日本銀行広島支店内のギャラリーで開催した。地図で爆心地からの距離を紹介し、近い順に110点のパネルを並べて展示した。今も残る傷痕から原爆の熱線、爆風の破壊力、そのすさまじいさが分かるようにした。
米国には40点ほどのパネルを持っていき、ロサンゼルスのほかサンフランシスコ近郊のバークレーで写真展を開く。地蔵の沈黙のメッセージを米国の人たちにも受け止めてもらいたいと願っている。(しみず・けん=元会社員)
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地蔵の記憶 -ヒロシマの仏石
写真家 清水 顕
広島に原爆が落とされて5年後、1950年10月にわたしは、広島市内で生まれ大学に入るために東京へ行くまで、広島市で育ちました。
母も、そして叔母も、祖母も被爆者です。父は原爆が投下された日には、広島湾に浮かぶ島、江田島の海軍兵学校にいましたが、8月21日には、原爆で荒野となった広島市に入っています。
わたしがヒロシマの写真を撮り始めたのは、東京から広島に戻って生活を始めた1975年のことです。毎年、8月6日の原爆投下の日は、慰霊祭が行われる広島市中心部の平和記念公園に出かけて、平和式典のようすや被爆建造物を探しては写真を撮ってきました。
しかし、なにか、これは違う。わたしが、本当に撮りたい写真にまだ出合っていない、という気持ちが、いつもこころのどこかにありました。
2009年7月、広島を初めて訪れた友人を原爆ドームに案内していたとき、偶然に、被爆した地蔵があることを知りました。 原爆ドームから、わずか50メートルの場所にある、西蓮寺(さいれんじ)の前に赤い帽子と前掛けをつけた地蔵があったのでした。
側の説明板には「被爆地蔵尊、原爆の熱線がほぼ真上から来たために、側面と地蔵尊の陰になった部分は滑らかであるが、他の部分は表面がザラザラになっている」と書いてあります。
触ってみるとまさしく石の表情に違いのあることが分かりました。 今までどうして気がつかなかったのでしょうか。強いショックを受けました。「この地蔵は1945年8月6日をしっかり記憶している。それを後へ伝えようとしている」と、わたしは感じました。
その日、以来、わたしの地蔵探しの仕事が始まりました。広島市内の寺を訪ね歩き、うち砕かれた頸、焼け爛れた顔、ケロイドの様に残るヒビの地蔵を何体も見つけたのです。 被爆地蔵を見ていると、まさに、亡くなった母の語っていた焼けただれた被爆者の姿が目の前に浮かんでくるのです。
今もなお残っているこの被爆地蔵をアメリカの人々に見ていただき、地蔵の沈黙のメッセージを受け止めてもらうことで、平和な世界を作るために努力しているアメリカの人々と共感できれば幸いです。
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被爆地蔵写真集に 2世清水さん撮影
2013年6月9日 読売新聞 広島地方版
被爆2世の写真愛好家・清水顕さん(62)(広島市西区)が、原爆の熱線を浴びた広島市内の石仏や墓石を撮影した作品集「地蔵の記憶」(税込み2100円)を自費出版した。「今も生々しく残る被爆の実相を感じてほしい」といい、22日~7月8日に旧日本銀行広島支店(中区)で収録写真の展示会を開く。(川上大介)
府中町出身で写真の専門学校を卒業し、20歳代の頃は雑誌やタウン誌のカメラマンとして活躍。その後は印刷会社に勤めたが、カメラを手放すことはなかった。
<出会い>は、4年前の夏。知人を原爆ドームに案内した時、偶然、すぐそばにある地蔵を目にした。触ってみると、熱線が届かない陰の部分は滑らかだったが、ほかの部分はざらついていた。
戦後、焼け野原と化した街が復興する中で育ち、銀行の入り口にあった犠牲者の人影が残る石も間近で見てきた。「広島出身の被爆2世として、写真でヒロシマを伝えたい」と原爆ドームや灯籠流しも撮影してきたが、地蔵を気に留めたことはなかった。「広島をよく知っているはずだったのに……。恥ずかしく、情けなかった」
同時に、そうした仏物(ぶつもつ)を写真で残すことが自分の仕事だとも考え、インターネットや書籍で探した。目の部分が欠けたり、頭が破損するなどした地蔵、熱線と爆風を浴びてヒビが入った墓石――。それらは、被爆した母親を通じて知った犠牲者たちの姿と重なった。「ひどいやけどを負い、肉が裂け……。そんな人たちの姿を、はっきりと伝えている」
市内41か所で撮影し、作品集に約110枚を収録。展示会(入場無料)では、約90点を選んで出展する予定だ。「語ることはないが、被爆の傷痕を伝え続ける地蔵や墓石の存在を多くの人に知ってほしい」と願う。
問い合わせなどは、清水さん(080・4261・9722)。
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広島の発言2013:ヒロシマの仏石写真集を刊行、清水顕さん /広島
毎日新聞 2013年06月08日 地方版
◇物言わぬ証言者の記録−−清水顕さん(62)
2009年から撮りためた被爆地蔵の姿を作品集「ヒロシマの仏石写真集 地蔵の記憶」にまとめ、5月に自費出版した。物言わぬ証言者との出合いは、09年7月だった。
「県外の友人を案内して原爆ドームや平和公園を歩いていたんです。すると水銀灯の柱に小さな矢印を書いた紙が張ってあるのに気づきました。目を遣ると、お地蔵さんがちらっと見えたんです」
よく知っている場所であるはずなのに、張り紙に気づいたのはその時が初めてだった。ひょっとしたら、もっとあるのかも−−。そう思い、寺巡りを始めた。
「普通なら処分してしまうような、無縁仏や(原爆などで)壊れた墓までが大切にされていることが分かりました。お地蔵さんには頭巾やエプロンがかけてあったり、花が供えてあったり。このお地蔵さんは、体験したことを伝えようとしているのだと思いました」
爆心地から2キロ圏内にある寺や墓所を回り、特にきっかけとなった西蓮寺には近くを通るごとに訪れた。最初は見えなかったひび割れに気づくなど、行くたびに発見があったという。
のめり込んだのには理由がある。母シズエさんの実家は中区の上柳町(当時)。中国配電(現中国電力)に勤めており、爆心地の東3・7キロ付近で被爆した。母の妹は広島駅の南側のホームにおり、今の新幹線ホームのあたりまで吹き飛ばされ、両膝が砕けた。
「おふくろは89歳で亡くなり、もっと話を聞いておけばと後悔したこともありました。死後、遺品の中から短歌がたくさん出てきて、あの日見た光景が詠まれていました」
東京でフリーカメラマンとして働いていたころから、平和記念式典や被爆建物を撮ってはいた。だが、自分の表現したいヒロシマとはどこか違った。焼かれた背中、吹き飛んだ頭、ひきつれた顔。傷ついた地蔵を見たとき、母が詠んだ被爆者の姿と重なった。
「母は被爆体験を歌に詠みましたが、私は語り部になれるわけでもない。自分にできることは写真だったのです。私たちには次に伝える役目があるのです」
写真集はジュンク堂やフタバ図書など市内の大手書店や、原爆資料館のミュージアムショップで販売。また、22日〜7月8日、中区の旧日銀広島支店で写真展が開催されるほか、米国での展覧会も予定されているという。
「私も被爆2世。これからも何らかの形でヒロシマに関わり続けていくでしょうね」 【高橋咲子】