東繁春はなぜ、英字新聞を作っているのか No.1 「1981年で、すでに実態とかけ離れていた日系新聞の編集方針」
ロサンゼルスに住む日本人の間では、日本人コミュニティーにつての情報は、日本語で読むものだと思われていました。この日本人の常識をひっくり返すような日本人のための英字新聞を作ろうという発想が生れた理由は、ちょうど、35年前、初めてロサンゼルスに来て、日刊日本語新聞「加州毎日」(英語版も併設)で日本語記事の編集に携わったことでした。
ロサンゼルス都市圏には現在10万人近い数の日本人が住んでいます。35年前は、日本人人口は10万人よりは、少なかったでしょう。しかし、5万人以上の日本人は居ました。
戦前と戦後間もない時代のロサンゼルスの日本人コミュニティーでは、大半の日本人は、自分の出身地の県人会に所属し、商売をやるひとは、日系商工会議所のメンバーになっていました。仏教会(お寺)のメンバーも多かったのです。そして、日本人家庭は、全員が日本人でした。ですから、日系新聞は、県人会の動向や日系商工会議所の発表を日本語の記事にしていれば、メディアとして成立していました。
ところが、わたしが仕事を始めた1981年には、大半のひとは県人会に参加していない、日系商工会議所にも属していない、という現象が起こっていました。幸い、仏教会のメンバーの減少はまだ、始まってはいませんでしたが、日系新聞の紙面は、県人会や日系団体の活動の記事ばかりでした。
わたしは、1982年にはサンフランシスコに行き、日刊新聞「日米時事」で記事編集に携わりましたが、サンフランシスコの日系新聞の編集方針はロサンゼルスとまったく同じでした。つまり1981年にはすでに、日系新聞の編集方針は、アメリカに住む日本人の実態と大きく離れたものになっていました。
県人会に参加していない人たちの活動は、まったく報じられませんし、団体のメンバーでない人たちが新聞で意見を発表できるような工夫もありませんでした。正式な会になっていない団体活動は、たしかに取材しにくい点はあるのですが、ロサンゼルスとサンフランシスコの日系新聞では、何かを調べて報道するということは行われていませんでした。
1953年から10年の間に、アメリカに渡った日本人の「戦争花嫁」は10万人近いといわれているのですが、この巨大な人口グループが、日系新聞の購読者になりえると言った発想は、日系新聞にはありませんでした。
(カルチュラルニュース編集長、東 繁春 2016年9月21日 記)
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東繁春はなぜ、英字新聞を作っているのか (リンク集)
No. 1: 1981年で、すでに実態とかけ離れていた日系新聞の編集方針
http://digest.culturalnews.com/?p=5194
No. 2: アメリカ国籍男性と結婚するために渡米する日本人女性
http://digest.culturalnews.com/?p=5191
No. 3: 21世紀の日本人コミュニティーの存在意義
http://digest.culturalnews.com/?p=5185
No. 4: 記者ないなくてもメディアは作れる
http://digest.culturalnews.com/?p=5180
No. 5: 十人の篤志家を求めています
http://digest.culturalnews.com/?p=5176