2012/半田俊夫 東北・三陸被災地巡拝の旅 2012年6月
2012年6月
今回6月7-11日の5日間(宮城、岩手)三陸被災地を巡回するカルチュラルニュース東氏主催のツアーに南加から友人と共に夫婦で参加した。
訪問地は仙台経由で、
(宮城県)塩釜、松島、石巻市、女川、勝雄、大川町、南三陸町、気仙沼市、
(岩手県)陸前高田市、大船渡市。
(写真貼付は数点のみ)
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三陸では現地の今も想像を絶する過酷な現状を見て、且つ犠牲者を思い、深い衝撃を受けた。大災害発生以来一年3ヶ月経っているにも関わらず復興など遠い状況に唖然、呆然となった、というのが正直な感想である。
各地を巡回し多くの人々と話した。
事前に、困難な状況にある現地の人々が我々の訪問をどう受け止めるか、邪魔にならないか自問と心配もあったが、現地の人たちはみな我々の来訪を、「来てもらっただけでウエルカム」と言ってくれた。
何処から誰でも「来て、見て欲しい」と。
この人達に、別れる前に何をして欲しいですか?と問うとほとんどの人が金や米や物やボランティア労働でなく「忘れないで欲しい」と答えた。
各地の被災地域も将来は高台移転か現地再生か、海岸沿いをどうするか、など方針が決まらず何も動いていない。
瓦礫の山積みが至る所に。土地は今は誰も住めないまま。 将来が見えない状態。
仮設住宅にいる人々も2年後には出なければならない。しかし2年後に果たして何処に住みどういう職が得られて幾らの収入を得られるのか、全く見えない。
日本の主要メディアは既に「復興期入り」とする基調の報道にシフトしている。
しかし現地の人々にとり復興の青写真も見えず未来がつかめないままの不安と心細さの中に、メディアや世界の関心も徐々に減っているとのもどかしさと寂しさがある。
現状は深刻。今後忘れないだけでなく、団体でなく個人としてささやかでも一点集中型でもよいから何か現地に直接繋がる事を始めようと考える。
以下は接した人々や状況からの見聞の抜き書き。下線を引きたい所は青色にする。
会った人々は夫々に蒙った犠牲の大きさにも関わらず淡々としながらも前向きの姿勢と行動の内容で皆すごい、立派だなと尊敬心を覚えずにはいられない人ばかりであった。みな一生懸命に一歩づつ生きようとしている。
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6/7 (木)
(午前)
仙台経由松島着。
本釜石駅で谷口宏充先生の話を聞く。被災地のジオ・パーク構想。(火山学者。東北大学名誉教授)
(午後)
松島町七ヶ浜へ。
松島町中央公民館にて企画調整課の蜂屋文也課長から被害状況と対策活動につき写真とパワーポイントで説明を受ける。若いが意志の頼もしい人々。
石巻市内の被災地を訪問。
(夕刻)
石巻にて石巻東ロータリークラブとの夕食懇談会。
ロータリーの徳増良平幹事(60歳代、海産物会社のニホン海洋KK社長)
はボランティア・ダイバーとして既に遺体約250体を海底から回収した由。
「暗い瓦礫の海底で中々見つからず真っ暗のヘドロの中を掻き分けると見つかる事がある。五体そろった遺体だけでなく、胴体だけとか足だけとかバラバラになった状態も多い。両手で抱き上げて『遅くなってごめんね』とささやいてから水上に上がる。」
石巻グランドホテル観洋に宿泊。
(高台でほぼ無事だったホテル。他の殆どのホテルが無いか休業中なのでここは仕事関係者で混んでいた。)
6/8 (金)
(朝)
南三陸観光バス・高橋社長同行の下に出発。
女川、勝雄を巡回。
雄勝にはこのバス会社の大型バスが乗り上げたビルが周囲に何も無い中に廃墟として残っている。(以前バスがビルの上に鎮座している写真を見た。)今はそのバスがビルの残骸と瓦礫の山の間に立っていた。
津波当日このバスはビルの遥か上を津波に浮かんで流れて行き、戻り津波で帰って来てたまたまビルの上に引っかかり止った由。
一帯に集積して行き場の定まらぬガレキの山々が林立している。メタンガスを出すので火災の危険があり排気の為のパイプを埋めているのも見える。瓦礫の山から雑草や草木すら生えてきている。
次に大川小学校(石巻市立)と慰霊碑へ。
児童108人中74名が、また教職員13人中10人が津波の犠牲者となった。
高橋社長と駆けつけた奥さんから詳しい話を聞く。 痛々しい現実に言葉出ず。涙が出る。(奥さんは辛くて震災以来今まで一度もここに来れなかった由。この日我々への説明の為に初めて来てくれた。)
学校当局者達は判断に迷い行動の決定が遅れたがまさかここまで押し寄せるとは経験知と常識から考えなかった(湾から5Kmで津波は来ないとされ住民の指定避難所にもなっていた)としても全体状況から必ずしも責められない感がある。
(現地では約50年前のチリ地震津波の規模が想定災害の実質基準になっていた。 今回はそれとは桁違いの津波が押し寄せた。)
学校に駆けつけた親が強引に自分の子供を連れ帰った例は助かった。
校舎の直ぐの裏山は今は雪がない一部除林した緑の状態だが(結果論としては何故すぐの裏山を登らせなかったか、山を登らせれば助かった、と言えるが、事実2, 3人が登り気絶後に助かった)
それでも見たところ45度以上の極端な急斜面と木々の密集の状態で足場が取れない感じで、しかも当日は一面の雪であり先生達が子供は登らせられないと判断したのは理解できる。 悲痛な状況としか言えない。
小学校は大きく立派な施設でひと気なく静かに立っているが廃校が決まっている。 慰霊碑は撮ったがその前で記念写真は撮らないように注意した。 将来は学校は高台にのみ建設する。
女川町高台に女川町立病院を訪問:
港を見下ろす岡の上に病院がある。病院の駐車場からは遥か下に横倒しになったままの3、4階建てのビルがゴロンと残されたまま。写真ではビルの形はバス風に見えるが本当のバスは右の方に遥かに小さく見える。
これだけの高地にある病院だがここも津波が上がって来て襲い、人の背丈を越える水位となった。入り口柱に当時の水位に線を書いて記録してある。浮いて流されて来た車両類がぶつかって来た損害もでた。ここの津波の高さは約17.6メートルと記録される。ビルのほぼ5階天井まで水になった高さになる。岡の上は住民があの高台に逃げれば大丈夫と思っていた場所であった。
(昼)
南三陸町「さんさカフェ」で昼食。
ここは志津川高校の救援ボランティアグループが始めて現在土木建設従事者や旅行者、住人たちへの食事供給場所として自主運営中。ここの責任者、鈴木淳さん、から明朝に話を聞く。
(午後)南三陸町被災地。
志津川高校へ。
日本の弟から送られた巨大津波のビデオを見てその撮影現場である同高校の高台の訪問を希望し到着。
南三陸町から15mの高台にある老人ホーム(町の安全避難地とされていた)から更に裏手20m以上高い所に高校がある。 同ホーム入居老人約70人の大半が痛ましくも犠牲となった。一部住民も高台で安全と車で避難に来ていた。
高校の高台からのビデオでは住宅の広がる広大な平野に右から徐々に津波が攻めてきて、終わりの頃に遥か階段の下にホームから車椅子2,3台を数人で押して上がろうとうごめいているが急勾配で上がれず、遠く下から急速に水かさが来て「あーっ」と思う所でビデオが終っている。
実際はビデオは取り続けたが老人達が流されたので公開ビデオではその寸前で切って編集したと思われる。高地なので安全と考えて建てられた老人ホーム「慈恵園」であった。高校や階段下のホームを歩き回ったがとても車椅子を押して上がれる勾配ではなかった。
見下ろす遥かに広大な平野全体の市街地は絨毯爆撃を受けた後のような感じで全滅となっている。大きなビルの外郭か骨組みは残っているが廃墟化している。大病院も学校も廃墟として立っているが取り壊しと決っており無残である。 大型ビルが4階まで完全冠水、5階も半分水が来て、4階の上の屋上の丸い塔の上にしがみ付いた人だけが助かった。
水に襲われた各ビルの内部は天井も床も壁も器具類も滅茶苦茶にひっくり返り破壊され焼けただれた様な色になって各内部も爆弾が破裂したような光景になっている。また別のビルは中味が全く何も失くなって骨だけの状態のもある。 廃墟、夜は幽霊街のようになる。
(夜)
ホテルで小野寺寛さん
(素晴らしい歌津をつくる協議会会長)から地域の歴史と被災現状、将来計画を聞く。 (平安からの高い文化、マルコ・ポーロ以来世界が目指した金の産地) どこの大型被災地も今後高台移転か別の案かが討議されるとしても技術、財政面もまだ決められない。住民の総意形成も遠い。被災者の生活も宙に浮いたままである。
南三陸ホテル観洋に宿泊。
現在ここしか大型ホテル再開はなく復旧関係者などで混んでいた。ホテルは海際高台にあるがそれでも2階まで水にやられた。しかし高層なので上は助かった。一時避難所だったが今は営業。
6/9(土)
(朝)
ホテルで「さんさカフェ」の鈴木淳さんから話を聞く。
「自分の家は流されもう無い。ここでボランティア数人で自力で仮設住宅に住む人達や工事関係者、旅行者のために有料食事提供をやって利益は出ず苦しいが何とかやっていると、やれるからと当局の援助は全く無い。やり続けるが先の生活が全く見えない。政治やメディアが段々遠のいて行く。誰でも見に来て欲しい。」 旅行仲間で僅かだが出し合って寄付をした。
同じくホテルで曹洞宗・津竜院の館寺規弘僧侶の話を聞く。
2000年から12年間サンフランシスコの桑港寺の住職を務めたが震災の5日目に何とかせねば決意しシスコを去りと日本に帰国した。歌津地区住民の約半数(1,000所帯)が檀家で、120名の犠牲者を出した。
(午前)
気仙沼市の曹洞宗・清涼院を訪問。
三浦住職の話を聞く。 墓、遺骨の流失、破壊、檀家多数が犠牲。
(副住職・三浦賢道さんはLA禅宗時の小島師と同期の由)
気仙沼市の臨済宗・地福寺と慰霊塔へ。
片山秀光住職の話を聞く。水辺に近く街は全滅。一軒の跡形もない。檀家の多く150人が犠牲に。寺も一階半ばまで水が押し寄せた。 寺は実は街の避難所だった。住職はごつい顔をしているが犠牲になった檀家の話の時に目を潤ませるのが分かった。 和尚の「めげない、にげない、くじけない」の書入りの信玄袋や記念品を沢山買う。
気仙沼復興商店街:
店の人達も自宅は流失。 皆、応対の態度は明るい。
店を出せる人達はまだ恵まれた人達だという。店を出せない状態の人が圧倒的に多いのが現実。
お土産を沢山買う。 土地の物を買う事で少しでも地元に役立ちたい。
大船渡のガソリンスタンド経営者、新沼丞氏の話。
それと海産物製造卸業尾坪商会の尾坪社長の話を聞く。
前者は独立系で全国の独立系グループの会員。被災後は独立系はガソリンが途絶えた、自社タンクローリーも流失。広島県呉市の独立系グループ会員が中古ローリーを買いガソリンで満タンにしてはるばる広島から迂回路を運転してロータリーごと届けてくれた。3回繰り返してくれた。
尾坪商店は製造工場4箇所を流失、
(LAではこの尾坪商店の海産物をよく買って食べているので馴染んだ会社だ。)
現在一箇所を再建して何とか再開の努力中、ただ売り上げは被災前の40分の一。
(夜)
気仙沼ホテル観洋に宿泊。
ホテルは高台にあり無事だった。現在地域頼りのホテル。
6/10 (日)
(朝)
気仙沼市・鹿折地区。
廃墟となった市街地のど真ん中に今も巨船がどーんと鎮座している。全長約60メートルの福島いわきの漁船「第8共徳丸」。
港から800㍍も流されて気仙沼住宅街に乗り上げた。他にも乗り上げた20隻近い大小の船舶は既に海に戻されたか解体されたが、「第8共徳丸」は巨体ゆえに費用が巨額なためそのままになっているが、周辺に住んでいた被災者から「見るのも辛いので早く撤去して」という声と、大震災の歴史証拠としてそこに保存すべきとの声と、住民の意見が分かれている。
(午前)
気仙沼市、三菱自動車販売、千田満穂会長と面談。
独立経営者。ショールームと所有の自動車多数が全滅。一般の火事や盗難保険は入っていたが津波保険まではまさかと入っていなかったので全損となった。三菱自動車からは支援ゼロ。 宮城県の他の市3箇所で営業しているので損失を出しながらも持ちこたえている。大都市仙台の方では買い替えで売り上げアップしている。気仙沼市の将来都市図を作成、提案している先見性ある経営者。
(午後)
大船渡市プラザホテル訪問。
今野広巳支配人から被災当時に周囲の惨状と再建について聞く。
「被災して2,3日の大混乱と凍える寒さの中にロス郡の消防救援隊が駆けつけてくれた。言葉が全く通じず初めは誰が何をしに来たのか分からなかったが、色々助けられ心が通じた。
途中から市内に通訳できる人が見つかり助かった。その人も人家の屋根上に難を逃れ凍える中を助かった。(ロスの知人の鵜浦女史で後述の我々が訪問した医師の娘で日本訪問中だった。)これらアメリカ人は日本が好きになったので今度は妻を連れて来ると言っていた」
(このLA郡消防部のボランティア達とは今年3月のLA総領事館主催の震災一周年記念イベントで会い交流した。確かに日本人はいい人達だったので妻を連れてまた日本に行きたいと言っていた。)
日本の有名歌手とアメリカのジャズピアニストのコンサートのポスターがそれぞれ所々に貼ってあった。こんな状況でコンサートって現地の人はどう思うのだろうかと一部の人に聞いてみたところ「嬉しい」という反応だった。そうなんだと思う。歌手のコンサートは無料だ。ジャズの方は5千円だ、これは払うの無理ではないかと思った。
大船渡サポートネットワーク、鵜浦士朗医師を訪問。
当時の状況と現活動を聞く。
あすなろホーム訪問・高台にある。
(知的障害者、精神薄弱者を収容、職業訓練を提供。高井文子理事長)
ボランティア長の女性佐藤さんは津波で母と夫を失った。今は一見穏やかに話す。
「入居者10数人を抱え水道、電気が止まった数日は実に苦しかった。 2,3日して自衛隊が水を届けてくれて助かった。 再開後は市が優先的に対処してくれる。入居者は現状を理解できないので今も震災を知らないまま。」
共同生活事業所(予定変更)。
(夜)
気仙沼ホテル観洋に宿泊。
6/11(月)
(朝)
朝6時にホテルの高台から下に降りた海際の気仙沼魚市場を見学。
大きい。屋上まで津波にやられたが鉄筋骨組みは残り今は一部設備を動かし操業している。この日も鮫が数百匹水揚げされて並べられていた。日本全国のフカひれの半分以上が気仙沼発といい中国への輸出も気仙沼が中心の由。 インフラがやられ船も多く失っているので部分的な操業と見えたがそれでも少しは動き出している印象は希望を感じさせた。
チェックアウトし帰京。
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被災地の復興、再建について気付いた点がある。
戦争の爆撃や大地震で都市が破壊された場合、普通同じ場所に復興を考え計画する。建設が進む。
しかし巨大津波で市街地が破壊された場合は単純ではない。同じ所にまた市街を再建しても同じ大津波がまた来れば同じ様に破壊される事が分っている。 故に何処にどうするかの検討、調査、決定が出発点になる。地番沈下で潮が引かず放棄となる市街地や農地もある。
高台移転は市により一案として出ているが山を造成して道路建設、インフラを敷設して、住宅街、商店街、工場街を建設する案にしても巨額の予算と年数、技術が必要になるのに加え、市民の合意形成は容易でない。嫌だと言う市民も多い。他に諸々の案との複合などこの決定が大きな壁、困難となる。
個人として何をするべきか、
(昨年震災当日から商工会議所としてコミュニティーに呼びかけて取り組んだ募金活動は5千万円を越える金額が集まり全額を日本に送り一段落とした。)
今後、会った人々とは貴重な関係ができたので連絡をとり小さくても現地と直結する具体的な支援を考え実行したい。政府や行政ではなく、どんな事をしても全体の中で小さな点に過ぎず気が遠くなる思いが出ようが、現地の人と生きている人間どうし「個人ベース」で繋がろうと思う。
また自分の周囲の人に訪問を奨励し現地の人を紹介し(現地は電車もバス路線も失くなっているので)旅行、交通の要点も教えたい。
今これを纏めながら現地で会った人々を思い浮かべると自然に涙が出る。繋がりを大事にしたい。
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終わりに、今回日本の国土の美しさと、人々の賢さ、けなげさを改めて胸に深く感じた。
半田俊夫
*半田俊夫=東京出身。パサデナ市在住。在米約40年。元航空業界商社経営。以下の諸ボランティア活動を行う:羅府新報の随筆「磁針」欄に毎月執筆。日刊サン・ポエムタウン欄の川柳選者。パサデナ・セミナー会主宰。命の電話友の会、茶道裏千家淡交会OC協会などで会長としてボランティア活動。他に南加日系商工会議所、南加県人会協議会、日米文化会館、小東京評議会、米国書道研究会などの理事でボランティア活動中。南加日商と日系パイオニアセンターの元会頭。